人生の星取表

いずれ我が身も

昨日にひきつづき、何だか人生論めいたタイトルになった。私は色川武大さんの“人生九勝六敗理論”を信奉する者である。これは『うらおもて人生録』*1新潮文庫)で展開されていた考え方で、人生勝ち続けることは所詮難しく、山あり谷ありなのであって、いまが苦しくてもいずれ運が上向きになることがある、死ぬときに勝ち越していればいいじゃないかというものだ。大きく番付を上げるような勝ち越しを望んではいけない。それが逆に命取りになるかもしれない。六敗くらいは覚悟しなければならないのである。
「ついていないなあ」「嫌なことが多いなあ」「自分は駄目だなあ」と気持ちが沈んでくると、この九勝六敗理論を思い出して、いつかはいい日がやってくるだろうと自分を励ましている。
先日目上の人ばかり数人と飲んだとき、人生の運不運について話が及んだ。思わず「人生九勝六敗でいいんですよ」と、いかにもおのが考えのごとき捨て台詞を吐いたところ、ある大先輩がこの比喩をいたく気に入ってしまい、自分たちのまわりには十五戦全勝を狙っている、あるいは現在連勝中という人がいかに多いかという話になった。私は特殊な環境で仕事をしているためか、実際そういう人が多くて困惑してしまう。「そういうあなただって…」と、自分も人生連勝中と周囲に思われているかもしれない状況は耐え難い。
年齢的にはちょうどいまが人生半ば、中日八日目といったところか。これからの人生いいことが嫌なことをちょっと上回る程度、つまり四勝三敗で過せればいいと考えれば、九勝六敗で終えるためにはこれまで五勝三敗の成績を残していなければならない。そうなっているだろうか。
さて、色川武大さん晩年のエッセイを編んだ文庫新刊『いずれ我が身も』*2(中公文庫)を読み終えた。没後にまとめられた遺稿集『ばれてもともと』などから晩年の交友録や人生観を述べたエッセイが収められているが、うん、これがまた実にいいのである。上で縷々述べてきた人生のバランスについては、こんな一節が身に沁みる。

事象というものは、限りなくアンバランスであるように見えて、大きく見るとバランスが微妙にとれている、そのあたりを探ることにあるようだ。(「ババを握りしめないで」)
その時々の運不運幸不幸にこだわらず、もっと大局的に物事を見、考える。そんな色川さんの考え方は、別のエッセイではますますスケール・アップする。人間に先天的に備わる「運」を入れる器は、一人の人間が一つの容器でなく、血でつながる数代の家系がその単位であるというのだ。
どうも無責任のようだが、近年、私は、人間はすくなくとも、三代か四代、そのくらいの長い時間をかけて造りあげるものだ、という気がしてならない。生まれてしまってから、矯正できるようなことは、たいしたことではないので、根本はもう矯正できない。だから何代もの血の貯金、運の貯金が大切なことのように思う。(「血の貯金、運の貯金」)
この考え方を土台に、人間には貯蓄型の人生を送る人と消費型の人生を送る人二種類があって、前者はたとえば「自分の努力がそのまま報いられない一生を送っても、それが運の貯蓄となるよう」な人のことだとする。これでいくと私は貯蓄型よりは消費型に近い、いや消費でなく浪費型かもしれないと来し方をふりかえり反省する。
六勝九敗でもいい。この負け越しが「血の貯金、運の貯金」に変じるような生き方ができればいいのかもしれない。