湿り気巴水

夕暮れ巴水

リンボウ先生こと林望さんのイギリスはおいしい*1(文春文庫)にはじまるイギリス・エッセイの愛読者であったし、またそれにとどまらず、本業の書誌学関係の著作『書誌学の回廊』*2日本経済新聞社、『リンボウ先生の書物探偵帖』*3として講談社文庫で再刊)や『書藪巡歴』*4(新潮社→新潮文庫*5)なども面白く読んだ。要するにファンだった。本が出ると買い求め、読んでいたのである。
ところがある時点からリンボウ先生の文章に拒否症状が出た。きっかけははっきりしている。『書斎の造りかた―知のための空間・時間・道具』*6(光文社カッパブックス)にただようスノビズムとの相性が悪く、読むのを途中でやめたのだった。
多少のつまらなさであれば最後まで読み通すのが私の本への向き合い方なのだが、この本だけは我慢ができなかった。以来リンボウ先生の著作は敬して遠ざけるようになってしまったのである。
けれども気になる本がないわけではなかった。それが『夕暮れ巴水』*7講談社)だ。川瀬巴水の美しいカラー刷風景版画34点一点ずつにリンボウ先生が詩や連句・散文などを添えた画文集で、副題に「林望の日本美憧憬」とある。
川瀬巴水という版画家の名前が私の頭に刻みつけられたのは、東京都立現代美術館で見た「水辺のモダン」展がきっかけだった(旧読前読後2001/7/21条参照)。小林清親らの版画と一緒に巴水作品も並べられていたのだが、ともすれば清親より私の心に沁みたと言ってよい。見終えてから立ち寄った同館のミュージアム・ショップで本書の存在も初めて知ったのである。ただしそのときはあいにく持ち合わせがなく(定価2400円)、本の存在だけ記憶にとどめ、後日に期した。
その後大田区立郷土博物館で開催された「版画にみる東京の風景」展(旧読前読後2002/11/10条参照)で巴水の版画に再会、この版画家が自分のお気に入りであることを再確認した。
先日丸善日本橋店で開催された『川瀬巴水木版画集』出版記念展ももちろん見た(→2/1条)。
都鄙に関係なくこれぞ日本の風景という瞬間を切り取る巴水の目と色彩感覚にうっとりし、見ているうちに心が落ち着き、さらに凝視していると、絵のなかに吸い込まれてまるで自分が描かれた風景の点景として存在しているかのような錯覚を感じる。とにかくいい。
丸善での展覧会にもリンボウ先生の本は並んでいた。でもそのときも買わなかった。大判で90頁に満たない本書、いくら巴水の絵が大好きだからといって、また、きっとお金を出した価値があったと思うに違いないとはいえ、2400円を一気に支払う勇気がないというのが本音である。ケチくさくて恥ずかしい。
だから本書の存在を知って以来、古本屋を訪れるたびに探していた。問題は、大判ゆえに単行本が著者五十音で並べられている棚の場合、普通の高さの棚に収まりきれず、別の場所にある可能性が高いこと。それも考慮に入れてはいたのだけれど、やはり探しにくく、これまで見つけられずにいたのである。
それがいとも簡単に仙台の萬葉堂書店(私が過去バイトをしていた店)で見つかった。「林望」の名札のあとに並ぶリンボウ先生の著書の上の隙間に横置きされていたのだ。背伸びして手を伸ばしやっと届くという一番上の段にある「林望」コーナーだったが、夢中で手を伸ばしていた。
帰宅してページをめくると、やはり巴水の絵はしみじみいいのである。ゆるゆると心がほどけていくような境地を味わう。
版画の画題に即して紡がれるリンボウ先生の詩文もまた絵を立てる興趣あるものだった。「讃州善通寺」に添えられた「夢の雨」という詩篇の一節「雨のにおいお聞きよ/なつかしいよ、さわさわ/夢のなかへかおるよ/とおいあの日、さわさわ」を目にしたとき、このところのリンボウ・アレルギーがだいぶ解消されたかと感じたのである。
そう、巴水の雨の絵を見ていると、湿り気を帯びた空気の匂いが絵のなかから香ってくるようだと思っていたところにこの文章が目に飛び込んできたから、覿面に効いた。

なんといっても、巴水の傑作は大正末期から昭和初期にかけての頃の風景画で、それも色調の暗い夕方から夜、あるいは雨や雪などの景色が断然優れている。(「「夕暮れ巴水の懐かしさ―あとがきに代えて―」)
というリンボウ先生の論に断然賛同する者である。雪といえば、しんしんと降り積る雪景色のなか、唐傘をさした人物が雪に煙る後ろ姿を見せて歩いている「月島の雪」の絵を見ると、先日遭遇した仙台の春の大雪の風景を思い出し、つい数日前のことなのに「懐かしさ」を感じてしまうのだった。
リンボウ先生の「夕暮れ巴水」という絶妙なネーミングと比べると詩情において大きく見劣りがするけれども、こんな雨や雪の風景が素晴らしい巴水作品を「湿り気巴水」と呼んでみたくなる。