洲之内コレクション形成史

絵のなかの散歩

洲之内徹さんの『絵のなかの散歩』*1新潮文庫)を読み終えた。7日条で触れたように、本書を仙台に携えていった。
彼の蒐集した「洲之内コレクション」を宮城県美術館で実見するまでに前半四分の一程度読み進んでいたが、今回展示されていた絵の多くについて本書で言及があり、実物に接して既読部分を再読する愉しみ、実物に接してから未読部分を読む愉しみ、実物を見ることが叶わなかった絵についての文章を、あの美術館の空間に他のコレクションと一緒に展示されている様子を想像しながら味わう愉しみ、書物と美術館によって洲之内コレクションの魅力が二倍以上に増幅されて伝わってきたのだった。
先に読んだ『気まぐれ美術館』の場合、その独特の美術エッセイの雰囲気に慣れ親しむまで少し時間がかかったような気がする。それに対してこの『絵のなかの散歩』は、実物を見たということもあるけれど、抜群に面白かった。
7日条でも書いたが、何と言っても本書は、洲之内さん没後宮城県美術館に一括して引き取られた洲之内コレクションの絵一点一点(すべてではない)について、その絵との出会い、洲之内さんが入手するに至った経緯が事細かに記されているという、いわば「洲之内コレクション形成史」の意味合いをもつ本なのである。
解説の車谷長吉さんも引用している文章だが、

私は常々、絵というものは生き物で、一枚の絵にはその絵の運命があると思っている。(「野田英夫「メリー・ゴー・ラウンド」」)
という一文に象徴されるごとく、洲之内さんが蒐集した絵にまつわる文章には、その絵がたどった運命、その絵を描いた画家の運命、絵を手にしてきた人びとの運命が凝縮されており、それぞれがダイナミックな人間のドラマを形づくって読ませる。
洲之内さんは絵に関わる人びとについて、画家以外で、「絵好き」「愛好家」「蒐集家」「美術批評家」「画商」をあげる。
愛好家は「どうもつまらなく高尚ぶっている感じで、言葉がネクタイを締めているみたい」、蒐集家は「高度成長と所得の増大の結果生れた新しい人種で、絵を買いこんでおいて値上りを待とうという人たち、だから絵の値段のことなら、いい加減な画商よりもずっと詳しい人たち」、美術批評家は「金もなく、更に、絵が好きでなくとも、なろうと思えばなれないことはない。一つ二つ外国語を自由に使いこなすことができれば、絵のことはわからなくてもなれる」、画商は「絵が好きでは画商になれない」とことごとく辛辣だ(「前田寛治「病床一夜」」)。
むろん洲之内さんが好意的なのは「絵好き」である。本書を読むと洲之内さん自身が「絵好き」に属することは一目瞭然。たとえば安井曾太郎の素描「少女」に一目惚れしてしまいお金をかき集めて手に入れ、「欲しい絵は欲しいと思ったときに買うべきだ。見逃したらもう手に入らない。金のほうは少々無理をしても、いずれそのうちに自然に埋め合わせがつく。そういうふうにできている」(「安井曾太郎「少女」」)とうそぶく。
話は脇道にそれるが、上の文章のうち「絵」という言葉を「古本」に入れ換えても通用するだろう。古本蒐集家より「古本好き」があらまほしく、私も周囲からそう思われたい。
だからその絵が手に入る可能性を一切抜きにして、ただ欲しいと思ったのだが、しかし、一枚の絵を心から欲しいと思う以上に、その絵についての完全な批評があるだろうか。(「靉光「鳥」」)
吉田健一の文章が頭をよぎる。これこそが「絵好き」の人間の絵に対する理想的な向き合い方だと思う。
かくして画商という商売を抜きに集められたのが洲之内コレクションであり、その蒐集譚が本書なのだから、面白くないわけがない。
画題をエッセイのタイトルにした、つまりコレクション形成史とは直接つながらない一文もまた違った意味で面白い。岡鹿之助に絵の鑑定を請うた一件を綴った「岡さんとの話」は一篇の小説である。
これを小説と呼ぶのなら、鳥海青児の絵をめぐる所蔵者土門拳との間のやりとりが微笑ましい「鳥海青児「うづら」」や岸田劉生の新たな「麗子像」発見譚「岸田劉生「西瓜喰ふ童女」」も小説といってよいし、長谷川燐二郎(燐は本当はさんずい)が猫一匹を描くさいの苦心譚(「長谷川燐二郎「猫」」)はまるで絵描きというプロの芸談のようだ。
木村荘八の小品「お七 櫓にのぼる」に触れてその江戸趣味を指摘し、荷風と荘八に共通する本質的な芸術家気質を鋭くつく「木村荘八「お七 櫓にのぼる」」なども唸らされる。蒐集譚に芸談、絵をめぐる人間のドラマ、そのなかにときおり混じる珠玉のごときアフォリズム、変化舞踊さながらの書物であった。