旅情のありか

豪雨の前兆

関川夏央さんの文庫新刊『豪雨の前兆』*1(文春文庫)を読み終えた。エッセイ・評論集であるが、いっぷう変わった構成だと思う。もともと『文學界』に連載されたエッセイに別の場所で書かれた作家論二篇を加えて成り立っているが、連載分のほうは一篇一篇が相互に無関係なのではなく、かといってすべて同一テーマというわけでもない。三〜四篇が連続したテーマでひとまとまりになっており、それらのまとまり(仮に「部」と呼んでおく)が六つあるのである。
私は関川さんの仕事のうちでも重要であると思われる朝鮮関係の文章を読んだことがなく、したがってそのテーマが展開されている第五章はいまひとつピンとこなかった。その他、たとえば『「坊っちゃん」の時代』に連なる、漱石を中心に論じた第二部はあの漫画を思い出して興味深かったし、別の場所で書かれたもの二篇を含む作家論のまとまり(第三部)では、論じられていた吉行淳之介藤沢周平須賀敦子作品への読書欲をそそられた。
いま第二部を読んで『「坊っちゃん」の時代』を思い出したと書いた。この漫画の影響が強いのか、あるいは関川さんの作風がそもそもそういうものなのか、どちらとも判断がつかないのだが、客観的(ナレーション的)でありながらある部分では取り上げられている人物たちの心象に深く分け入っていくという書き手としての立ち位置の自在性は、関川さんならではのものではないだろうか。本書では第二部以外でもそんな自在なスタンスが随所で発揮されている。
もっとも面白かったのは第一部。「操車場から響く音」と題し、現代日本人と鉄道(汽車・電車)の関係や「旅情」というものの発生論を説いている。ここに収められている四篇の通奏低音なのが松本清張の短篇「張込み」であることが、先日その作品を読み、それを原作とした映画を観た私(→1/20条)に響いてきたのである。
とはいえ関川さんは松本清張には概して冷淡だ。それは「張込み」の原作と映画の関係について書いた以下の文章を読むとよくわかる。

小説と映画の骨格は共通しているものの、映画には松本清張作品特有の酷薄さが見えない。酷薄さと背中あわせの感傷も整理されている。それは橋本忍の手柄である。(11頁)
橋本忍は映画の脚本を書いた人物。「手柄」とあるからには、関川さんは原作の「酷薄さ」「感傷」には否定的なのである。逆に私は清張作品特有の酷薄さが好きなのだが。
ところで現在放送中の連続ドラマ「砂の器」を観ていて、設定が現代であるにもかかわらず、刑事の渡辺謙永井大二人は、飛行機を使わず鉄道で出雲出張に赴いた。現在であれば、東京から山陰に行く公務員の出張は飛行機でも許されるのではないか。そんな疑問を持ったのである。しかしながら清張作品の刑事が飛行機を使って移動しては雰囲気が損なわれるだろうとも思う。新幹線でも危うい。夜行列車こそがお似合いだ。『点と線』も例外ではない。これが清張作品にただよう「旅情」というものか。
「旅情」は何も乗る人間だけの所有物ではない。鉄路を走る汽車を見る者もそれを共有した。汽車を見て手を振る、それを見た乗客も手を降り返す。その交歓のなかに「旅情」は生まれる。しかし現代の旅に「旅情」はあるのか。関川さんはこう書く。
すべてを黙殺して地上を飛ぶように走る新幹線は、同時に自らもすべてから黙殺される。汽車に向かって手を振る子供は絶えたのである。(50頁)