物を識ること必ずしも物を創ることならず

無想庵物語

過日、さる方から、「山本夏彦さんの『無想庵物語』*1(文春文庫)の索引はすごいですよ」といった内容のメールをいただいた。
読売文学賞受賞作品であり、山本さんの代表作のひとつに数えられていながら、現在品切。たまたま昨年11月に文庫版を古本でようやく入手できた嬉しさが余韻として残っていたこともあり、さっそく索引を見るとたしかに素晴らしい。無味乾燥にページナンバーが並んでいるのではなく、人名であればその人物のプロフィールが簡単に説明されているほか、主要な登場箇所では、ページナンバーのところにそこで述べられているエピソードが要約されているのである。索引だけで40頁が割かれる充実ぶりだ。
たとえば著者自身については、こんなふうに記されている。

中学二年で父露葉の友無想庵に初めて会う  7
気心の知れぬ少年。ほとんど口をきかぬ    7
川田順会いたがる。手紙の往復あり      19
(以下略)
エピソードをピンポイントで探しあてることができるだけでなく、うまく使えば、本書のアウトラインをつかむことも容易であろう。索引の扉で山本さんは「もとより完全には遠いが、事典の多くがこれを試みれば索引は一変しはしないか。索引と同時に読物であることを心がけたから、勢い主観的になった」と述べる。たしかにこうした索引制作の手法を他の評伝的書物にも援用すれば、索引というものを「読む」楽しさも出てくるに違いない。画期的な“読む索引”である。
せっかくの機会なので、索引を読むだけにとどまらず、そのまま本文も読むことにした。本書の主人公武林無想庵は私にとって名前しか聞いたことがないような人物である。露伴と夜どおし語って尽きぬという該博な知識の持ち主でありながら、ついに作家として成功しなかった失敗者であった。谷崎潤一郎佐藤春夫川田順らとも親しく交わり、また夏彦さんの父山本露葉とも親友であった。
露葉の没後は遺児夏彦を友として遇し、パリで起居をともにしたこともある。夏彦さんは無想庵の娘イヴォンヌと親しく、本書を読むと辻潤(彼も無想庵の友であった)の子辻まこととの間で一時三角関係にあったらしい。そんな経緯も手伝った夏彦さんの手により無想庵の評伝が書かれた。
「希代の物識り」だったという無想庵は、谷崎・芥川をもその知識で凌いだ。本書の前半は一種の「物識り」論でもある。本書のなかで山本さんは何度も繰り返し「物を識ることと物を創ることは全く別」と述べる。これは無想庵のことにほかならない。「物識り」同士がぶつかるとどうなるのだろう。
物識りというものは知っているかぎり一刻も早く話そうとする。相手も物識りだと互いに相手を打負かそうとする。物識りでないほうは物識りの圏内にあれば江口(渙―引用者注)のように感嘆するか、あるいは憮然とする。文子(無想庵の最初の妻、イヴォンヌの母―同上)は金のない物識りなんかふんとばかにする。(36頁)
「私は大事より些事に興味がある」と言ってはばからない山本さんだが、私も劣らず些事が好きである。本書でも大局よりも些事が気になった。
無想庵と谷崎・春夫との交流に関連して、文庫版の口絵として大正8年8月に無想庵の実妹三島みつの渡米送別会が催されたおりの集合写真が掲げられいる。この実妹みつは無想庵と性的関係にあったという驚くべきエピソードが紹介されているが、それはおいて、写真のなかに二人だけ洋装の人物が写っており、それが谷崎と佐藤春夫なのである。
面白いのは、これまた二人だけカメラに背を向けていることで、春夫はわずかに横顔がのぞくのだが、谷崎はまったく背を向けている。「皆さん、はいチーズ」といった声が写真から聞こえてくるかのように、他の全員はカメラに笑顔で応えているにもかかわらず、写るのを拒否するかのような谷崎の背中は何なのだろう。
しかも面白いのは、谷崎の後頭部に円形脱毛症とおぼしき丸い白点があること。写真の加減による傷かもしれないが、もしこれが私の推測どおりだとすれば、何が彼の頭髪を奪ったのか、下種の勘ぐりを働かせたい衝動を抑えられなかった。
ちなみ当時谷崎は「富美子の足」「呪はれた戯曲」「或る少年の怯れ」など旺盛な創作活動を展開していた時期である。
私は山本さんの「ロバは旅をしても馬になって帰ってくるわけではない」という格言が大好きである。死ぬまで外国に行きたくない、行く必要はないと思っているから、海外旅行の誘惑はこの言葉ではねつけることができると思っている。本書を読んで、この発言は無想庵と暮らしたパリでの一年間の生活に裏打ちされているということを知り、ますます信頼できると感じた。
「そこで働いてそこでかせがなければその国の人情はわからない」「(海外旅行者たちは)文化ショックをうけるかといえばうけない。あれは「はとバス」の海外版だ」「私は西洋人のなかに日本人と同じ所を見て違う所を見ない」。こんな気持ちのいい発言ができるのは経験あればこそだ。経験もせずに盲従するのも曲がない話だが、ともかくも、本書はこのように無想庵の評伝というだけでなく、山本さんご自身の自伝的要素もあり、またコラムと同じような意見開陳もある、いかにも山本夏彦らしい本だった。