東京からなくなったもの

東京人04.3

『東京人』2004年3月号は通巻200号の記念号にて、「東京からなくなったもの―消えた街角、思い出の風景」が特集されている。95人の豪華執筆陣が、自らの思い出に絡んだ「東京からなくなったもの」について文章を寄せている。
1〜2枚程度の短い文章がほとんどだが、やや長め(4〜5枚程度か)の文章を担当しているのが、鈴木博之(テーマ「名建築」、以下括弧内はテーマ)、森まゆみ(学校)、鹿島茂(学校)、川本三郎(映画館)、実相寺昭雄(鉄道)、植田実(集合住宅)、町田忍(銭湯)、扇田昭彦(劇場)、陣内秀信(街並み)、坪内祐三(書店・古書店)、藤森照信(看板建築)といった面々だから(むろん短い文章を寄せている方々も魅力的な人多し)、珍しくじっくりと腰を据えて隅々まで目を通した。
定義ははっきり書いていないけれども、おそらく『東京人』が創刊された1986年から今年までの間に「なくなったもの」と考えていいだろう。およそ(たった)20年の間にこれだけの「懐かしい」建物・風景が東京から消えてしまったと考えると、空恐ろしくなる。
東京に移り住んでもうそろそろ満6年を迎えようとしている。この間いろいろなところに出歩いて、東京の町を記憶にとどめてきたけれども、その私の乏しい東京散歩体験ですら「なくなったもの」の多さに茫然とする。
本誌に写真付で紹介されているもののうち私が自分の目で見たことがあるものを建物に限って列挙してみれば、交詢ビルヂング・丸ビル・旧歩兵第三連隊兵舎(東大生産技術研究所)・文京区立窪町小学校・同潤会青山アパート・同潤会江戸川アパート・同潤会大塚女子アパート・同潤会清砂通アパート・銀座東急ホテル・食糧ビルなどがある。
建造物に限定しなくとも失われたものは数多く、ましてや東京に生まれ育った人にとってみれば数え切れないほどそうしたものはあるに違いない。未来へ向かって日々変わり続ける大都市であるとはいえ、これほどまで簡単に過去の痕跡を消し去ってしまっていいのだろうかと、よそ者の私は思う。
本誌掲載の文章にざっと目を通すと、ほとんどの文章が、なくなったことに対する憤りというものを通り過ぎて、諦めが入り混じった哀感の色合いに染められていることに気づく。都市破壊のはやさには、怒る気力もないということか。私は東京経験が若いから、なくなってゆくことに対し苛立たずにはいられない。本誌を読んでいて、なくなっていくもののあまりの多さに、歯ぎしりしたくなるような悔しさがこみ上げてきた。
代表的なのは同潤会青山アパート。たまに青山から原宿のほうに向かって表参道を歩くと、前方には明治通りに向かって緩やかに下る坂道が見通せ、両側に並木があり、右手には同潤会アパートの洒落た佇まいが目に入る。だから表参道を歩くのはとても好きだった。たとえ安藤忠雄氏によって雰囲気を残した再開発がされるとはいっても、あれがない表参道に足を踏み入れる勇気がない。
陣内秀信さんは、同潤会清砂通りアパートがなくなったことについて、「町並みとしての喪失感が大きい」と書いている。そう、たんに建物ひとつがなくなったという問題ではないのだ。同潤会青山アパートがなくなった表参道を想像し、大きな喪失感に襲われる。
今回の特集のなかには、憤った文章がまったくないわけでない。一番印象的なのは藤森照信さんだった。看板建築に触れた文章の最後で怒りが爆発する。

もし東京がチャブ台だったら、こんな最近のチャブ台は引っくり返したい。
藤森さんもまた東京出身でなく、むしろ田舎育ちであるところが興味深い。あの穏和な藤森さんの風貌からは考えられないが、星一徹さながらに青筋を立てて都市東京というチャブ台を引っくり返す姿を想像して、チャブ台を持ち上げるお手伝いをしたいと思った。
ついでながら。『東京人』が偉いと思うのは、たんに「なくなったもの」を懐かしむ特集を組むばかりでなく、小特集として今年2004年に再開発計画が予定されているスポットをも紹介していることだ。幸い私の行動範囲にこれら再開発予定地はないものの、これでもかと紹介される再開発予定地のマップを見ながら、東京よ、おまえはそこまでして変わりたいのか、変わらねばならないのか、と深いため息をつくのであった。