飾らない女優高峰秀子

人情話 松太郎

昨年あたりから、昭和20〜30年代の日本映画をまめに見に行くようになった。川本三郎さんの影響が大きい。
制作公開後40〜50年を経過してなお現在も上映される映画ということだから、そこにはプログラムを組む映画館の見識ばかりでなく、一般的な世評も介在しているはずで、つまり時を隔てて生き残った名作佳作ぞろいだと考えてまず大過ないだろう。
もちろん個人差があって、これら「名作佳作」を面白くないと感じる人もいるに違いない。しかしこのご時世、駄作愚作(「怪作」ならば別かもしれない)の旧作映画をいまさら上映する映画館もないと思われる。私の旧作日本映画との接点は、こうした一般的評価、あるいは映画館のセレクトという限られた範囲でしかないわけである。
さてこれら旧作日本映画を見ていると、(主役級でという意味で)出演する俳優がかなり限定されていることに自ずと気づく。男優でいえば上原謙森雅之佐分利信山村聰佐野周二佐田啓二笠智衆小林桂樹加東大介などなど。女優は、高峰秀子高峰三枝子香川京子久我美子岸恵子山本富士子新珠三千代などなど。
脇役まで広げると際限がないが、女優でいえば浦辺粂子菅井きん(先日見た「娘と私」では何とシスター役!)・中北千枝子、男優は断然東野英治郎。これまでに見た旧作映画の八、九割方に東野英治郎は出演しているのではないか。私は東野英治郎といえば「水戸黄門」のイメージしかなかったのだが、むしろ主役を張った水戸黄門は彼の役者人生にとって異色であることがわかった。
前置きが前置きといえないほど長くなった。要するに今回言いたかったのは、映画を見て必然的に彼ら俳優たちにも興味を持つようになったということで、とりわけ高峰秀子さんへの興味が徐々に大きくなっていたのである。半自叙伝である代表作『わたしの渡世日記』(文春文庫)はこれまで本屋で何度か接近遭遇したけれど、まだ購入していない。それより先に、このほど、文庫新刊で入った『人情話 松太郎』*1(文春文庫)を購入し、読み終えたのだった。
本書は作家川口松太郎の聞き書である。川口の伴侶である三益愛子とは俳優仲間ということもあり、高峰さん(と夫の松山善三氏)は川口家と家族ぐるみの付き合いがあったという。そんな親しさもあって、江戸っ子川口松太郎のくだけた語り口が見事に紙上に再現されている。
本書の魅力はそれにとどまらない。むしろ私はその外側のほうに興味を抱いた口で、それは聞き手としての高峰秀子さんの側にあった。基本は聞き書であるものの、ところどころに自らの人生の回想をはさみ、また、現代社会の堕落を嘆く、高峰秀子という人物への興味がさらに強まった。
名女優であるにもかかわらず、飾らないさっぱりした方だなあとますます好きになったのは、聞き手としての自分の発言を文字にしたのが、丁寧な言葉でなく、これも伝法でざっくばらんな口調になっていることだった。上品だけれど気さくな(余計なことを付け加えれば小うるさい)いいおばあちゃんになっているのだろうと、現在のお姿をあれこれ想像してみるのである。