読書連鎖は本読みの理想

だからどうしたというわけではないが。

去年は目黒考二北上次郎さんの『活字学級』*1(角川文庫)・『記憶の放物線』*2本の雑誌社)を読み(感想はそれぞれ2002/7/14、同9/19条参照)、すっかりはまってしまった。
その後目黒考二名義の『だからどうしたというわけではないが。』*3本の雑誌社)を知り、同書の帯の惹句に「読書連想型エッセイ」とあるのを見て、上記二著もその系統にあるものだと勝手に判断してそう呼んでいた。
ところが今回、この『だからどうしたというわけではないが。』を読み終え、ここでいう「読書連想型」と『活字学級』系の著書は少し肌合いが違うことがわかった。前者は一冊の本の感想からまた別種の本へとつながる読書エッセイなのに対し、後者は本を読んで家族のことを連想するというタイプだからである。前者はむしろ「読書連想型」というより、「読書連鎖型」というべきかもしれない。

我々が実際に本を読むとき、一冊の本を読んだために次の本、また次の本と、本に引きずられるようにして読むことが往々にしてあるものだが、ではそれを最初からガイドにしたらどうか、という趣向である。(227頁)
四六時中本を読んでいたい。そんな本中心の生活を送る目黒さんであるが、読んだ本のことをきちんと憶えているわけではなく、また読み終えた本は新しく購入した本の山に埋もれて、再読したいと思って探しても見つからない。あるいは買ったと思っていた本を実は買っていなかったり、ご自分でもそんな性分を「困ったものだ」と嘆く。
上記の構想どおり連鎖的に本を紹介する構想があったものの、手元にあるはずの本が見あたらず、正確な筋を思い出せないまま断念、そんなもどかしさもあったという。
本読みとして、あの本の次はこの本と、次々連鎖的に読みたい本がつながるような状態にあるときほど楽しいことはない。
本書はその快楽がそのまま文章化され、ときおり個人的回想もそこに挿入される。たとえ他人の連鎖型読書体験であっても、共感する点大なのである。
目黒さんの他の本の例に漏れず、読みたくなってきた本の多いこと多いこと。都筑道夫の諸作品、秦新二『文政十一年のスパイ合戦』、岩川隆『どうしやうもない私』、海老沢泰久『監督』、小田光雄『図書館逍遙』、広瀬正の諸作品などなど。
「読書連想型」として刺激的だったのは、古今東西の野球小説を渉猟した第5話「白球と中学生」、犬が登場する小説をあげ、最後に大ファンだったという西村寿行の犬小説に及んだ第6話「犬が好き」、また小田光雄『図書館逍遙』を皮切りに自らが抱いている図書館イメージの深層を分析した第7話「図書館めぐり」といった中盤三篇だろうか。
でもやはり目黒さんといえばキーワードは家族。こんな一節を読んで、目黒さん風に言えば「胸がキュン」となったのである。息子二人が捨て犬を拾った級友から譲り受けて家に帰ってきたときの回想。
小学5年生の長男に抱かれたジャックは生まれたばかりの可愛らしい黒犬で、玄関先に立つ長男の横に、小学1年生の次男がいた。「飼っていい?」と尋ねてきた幼い子らの不安そうな顔をまだ覚えている。(105頁)
巻末に書名索引が付いているのがありがたい。最近読んだ大村彦次郎さんの『文壇うたかた物語』『文壇栄華物語』が二ヶ所に登場するので「おっ」と思い見たところ、「最近では、大村彦次郎の文壇3部作『文壇うたかた物語』『文壇栄華物語』『文壇挽歌物語』(いずれも筑摩書房)が面白かったが、一冊選ぶなら、…」(153頁)、「近年では大村彦次郎『文壇うたかた物語』『文壇栄華物語』『文壇挽歌物語』が印象に残っているが、今でも忘れられないのは…」(195頁)というように、前ふりとしてしか触れられておらず、がっくりするいっぽうで、せっかくの索引もこんな使われ方をされたら迷惑だろうと、何だか笑ってしまった。