さびしさは…

無名

そのときはなぜかいつも利用する大学生協書籍部でなく、最寄駅近くにある新刊書店で本を購った。もっともそこで本を買うのは珍しいことではないが、カバーをかけるかどうか聞かれる前から、勝手にカバーをかけられてしまった。どうするか聞かれたとき、私はたいてい「要りません」と答えるのである。
買うときには「読もう」と強く思っていた本も、したがって、そのために顔の見えない、個性の消えた“いつか読もうと思っている”他の本に紛れ、積読本の山のなかに埋没してしまっていた。ときどき思い出しては「あの本はどこにいってしまっただろう」と気にかけてはいたものの、ときどき積読本の山を崩してもカバーあるゆえに発見されずに時間がたってしまったのである。
年末にちょっとばかり奮起して積読の山を整理したとき、幸いながらその本を発見したので、急遽年末年始に読む本に加え、実家に送る段ボール箱の中に詰め込んだ。そしてこれも偶然、掲示板で書友炭焼珈琲さんが、昨年読んだ本の中で印象深かったものとしてこの本をあげておられたのをきっかけに、段ボール箱から本を取り出し、読み始めたのである。奇しくもこの本が、2003年から2004年へと年をまたいで読む本となった。
この本とは、沢木耕太郎さんの『無名』*1幻冬舎)。帯裏のコピーには、「自らの父の死を正面から見据えた、沢木文学の到達点」とある。この本の新刊広告を見たとき、沢木さんもついに自らの父親をノンフィクションの題材にしてしまったか…という、どちらかといえば落胆に近い感慨をもったことを、正直に告白しておこう。「沢木文学」をそれほど読んでいないくせに、不遜もはなはだしい。
いま本書を読み終えて思えば、沢木さんが父の死について書くことは必然だったのだと思わずにはおれない。「到達点」という売り文句については、上記のように沢木文学初心者の私に判断しかねるけれども、これまで読んだ沢木さんの人物ノンフィクションとはいっぷう変わった、しかし沢木色もあり、ただ沢木さんの年輪の重なりをも感じさせる重厚な作品であるといえる。
大きな運命の波をかぶりながら、四十まで無職でいて、その後溶接工の職人として淡々と日々を過ごす。いっぽうで息子にとって、他に類を見ない「大の読書家」であり、知らぬことはないと思われるほどの知識を有して前に聳え立っている。息子の記憶にあるのは机に向かい端然と正座をして本を読む父の姿。寡黙だが、息子の人生の転機にはかならず重い言葉を発する。息子の記憶にはそんな父の姿が刻み込まれる。

父には自己顕示欲というものがなかった。少なくとも私が物心がついてからは、父がそうした欲望を露にする場面を見たことがなかった。(51頁)
父には自分が何者かであることを人に示したいというところがまったくなかった。何者でもない自分を静かに受け入れ、その状態に満足していた。もしかしたら、自分を何者でもないと見なす心性が、たとえ子供であっても恣意的にコントロールしてはならないという考えを生んだのだろうか。(137頁)
自己顕示欲のなさが、子供であっても恣意的にコントロールしてはならないという自制心を生む。結果、子供には徹底的に不干渉だった。息子は自分の進路を父に相談せず自分自身で決め、すべて事後報告ですませた。一度しかない人生を「無名性」という色で染めることを選び取った人間だったが、皮肉にもその「無名性」ゆえに「無名」という書物によって人生の様々な場面を切り取られることになった。
息子にとって謎だった父の人生を解き明かすキーになったのは、俳句だった。知らぬ間のに数多く詠まれた俳句の数々。そこには自分のことも詠まれている。息子は父の遺した俳句を読み解きながら、父の人生の場面場面を想像し、そのときの気持ちを忖度する。
父が好きだったのは久保田万太郎だったという。沢木さんは「経堂の古本屋」(遠藤書店なのだろう)でたまたま見つけた『久保田万太郎全集』の端本を購入し、父にプレゼントした。それが全句集で、前から欲しかったと喜ばれた。
死の床にある父との会話で、万太郎の句の話に及んだとき、父は好きな句として「さびしさは…」という上五をつぶやいたままあとが続かなかった。父の死後沢木さんは全句集のなかから「さびしさは木をつむあそびつもる雪」という句を見つける。前書きに四歳になる息子を眺めての句とあった。そこから頭は自分の子供の頃の父との思い出に移る。
本書は、父の遺した俳句から父の人生を追いかけるというルポルタージュでもあり、まったく霧の中だった若き父の姿を解き明かすというミステリの味わいもある。若き父を思い出すいっぽうで、その父と歩んだ自分の少年時代の記憶も卒然とよみがえる。「父と子の関係」に介在したのは俳句であるという意外性に打たれながら、子を見る父の哀しさ、父を思う子の哀しさにあふれた本書を一気に読み終えたのだった。
俳句の「は」の字も知らなかった沢木さんの頭に、最後になってようやく十七文字がつながる幕切れもすこぶるあざやかである。