歌舞伎における女性の存在

江戸歌舞伎と女たち

歌舞伎座に入ると、脇目もふらず一目散に座席を目指すのではなく、まずゆるりとロビーを見回す。
頭上に掲げられている翌月・翌々月の狂言立てを確認するということもあるけれど、綺麗に着飾った歌舞伎役者の奥様(らしき人)がいないかどうか確かめるということもある。
なぜこうも歌舞伎役者の奥様は綺麗な人ばかりなのだろう。菊五郎富司純子さん、橋之助三田寛子さん、三津五郎近藤サトさん(こちらは元になるが)を見つけてはミーハー心を満足させる。一時期菊之助と江角マキ子の間に噂があったとき、いずれ歌舞伎座で彼女を見ることができるのかと楽しみにしていたものだった。ひょっとしたら近い将来篠原ともえ歌舞伎座のロビーで見つける日がくるのかもしれない。
このように、現在ですら歌舞伎役者の結婚、そして彼らの奥様は世間的な注目を集める。歌舞伎が庶民の娯楽の代表的存在であった江戸時代ならばなおさらのことだろう。
江戸時代には毎年役者をランク付けして批評する「役者評判記」という本が刊行されていたという。ベストセラーにはパロディや類似本がつきもの。「役者評判記」にも数多くのパロディ本がつくられた。
なかでも面白いのは「役者女房評判記」だ。つまり歌舞伎役者の奥様をランク付けして容姿や性格、家庭生活をああでもないこうでもないと書きたてるもので、いわば現代の女性週刊誌のゴシップ・スキャンダル記事を一冊の本に仕立てたようなものである。
武井協三さんの江戸歌舞伎と女たち』*1角川選書)は、この「役者女房評判記」を読んで、江戸時代の歌舞伎役者の女房たちの生活ぶりを活写した興味深い本であった。
中心となるのは五代目團十郎。18世紀中頃に活躍した役者で、あの「忠臣蔵」の斧定九郎の役柄を変えた中村仲蔵と同時代の人。「夢の仲蔵」という芝居のなかでは市川染五郎が演じた役者だといえば「ああ」と思い出す方もおられるだろうか。
本書では、五代目團十郎の正妻お亀・愛人お砂・継母お松の三人が中心的に描かれている。
前半は当時の歌舞伎界のあり方や系譜関係の解説に紙幅が割かれているため、後半での本筋が理解しやい。
座元市村家と二代目團十郎の血をひいたサラブレッドのお嬢様お亀、若いころは奔放で「女伊達」の風評があったお砂、そして岩井半四郎家の血をひき、弟子たちを一人前の役者に育てようというステージママ的なキャラクターだったお松。
改名の習俗もあってなかなか人物が特定しにくいなか、「評判記」を解きほぐしてそこに書かれた彼女たちの姿を丁寧により分け、浮き彫りにする。
たとえばステージママとしてのお松はこのように評価される。

彼女が最も大事にしたのは、自分自身の才能だったのではないか。出演者が男性に限られていた芝居の社会で、自分の才能を、男の肉体を通して実現することこそ、彼女の深いところにあった欲望だったのではないか。(177頁)
これを考えると、現在の歌舞伎役者の奥様は取り立てて男の肉体を通さずとも自己主張ができるわけで、逆にこのような女性に仕込まれる役者がいなくなったことを嘆かなければならないのだろうか。

*1:ISBN4047033588