裏返しの「坊っちゃん」

宇垣さん

毎回のように言及して恐縮だが、書友ふじたさん(id:foujita)が、14日条の拙文をご覧になって獅子文六の『信子』をさっそく読んでくださっているとは、嬉しいかぎり。私のほうは読み終えたので(朝日新聞社刊『獅子文六全集』第二巻所収)、ひと足先に感想を書いておきたい。特殊な感のある『海軍』をおけば、戦前の獅子文六作品を読むのはこれが初めて。戦後の諸作品と変わらずユーモア横溢で面白かったと最初に言っておく。
1963年から64年にかけて獅子文六こと岩田豊雄邸に住み込みで働いていた福本信子さんの獅子文六先生の応接室―「文学座」騒動のころ』*1影書房)で、大勢いるお手伝いさん応募者のなかから自分が選ばれた理由に、『信子』という作品があったのではないかと福本さんが推測していることは先日書いた。
それでは『信子』とはどういう小説なのか、福本さんが簡潔的確に要約されているので、それをそのまま引用する。

『坊ちゃん』という作品は、東京から下って、四国の松山の学校で教鞭をとる物語である。『信子』はその逆の構想で、九州の田舎から東京の女学校へ教師になるために上京をする設定になっている。物語の全体の構想も『坊ちゃん』とかなり似せかけてあった。
学校を舞台にしていること、みんなの先生に渾名を付けていること、主人公が生徒のいたずらに辟易すること、『坊ちゃん』が赴任先である四国の土地を嫌悪して、批判を挙げ連ねていることに対して、『信子』は、東京の町の悪い点を発見しては、いたたまれなくなり、郷愁にかられていく。(340頁)
要するに『信子』は夏目漱石坊っちゃん」のパロディなのだ。主人公が男から女へ変わり、東京→田舎(松山)という移動のベクトルが、田舎(大分)→東京と逆になる。この仕掛けにまず惹かれた。しかも「東京の町の悪い点を発見しては、いたたまれなくなり」という点が気になる。獅子文六にたしか『東京の悪口』というエッセイ集があったと思うが(未読)、作中でどんな東京の悪い点が述べられているのか、興味津々で読み始めたのだった。
福本さんの要約に屋上屋を架することになるが、物語は、東京の私立の女学校に教師として赴任した主人公小宮山信子が体操の授業を担当し、また学生寮の舎監として学生とともに寝起きするなかで、校内の校主(理事長のような立場)−教頭派と校長派の派閥争いに巻き込まれ、また、学生のリーダー的存在でかつ学校の大パトロンである代議士の娘でもある女子学生と対立しながら、すったもんだと一年余りの教師生活を続けるという内容である。ここに信子を田舎から招き寄せた先輩や、新橋で芸者置屋を経営する親類(信子は上京当初そこに間借りする)、そこで働く少女が絡む。
大筋では「坊っちゃん」のパロディで、たとえば餡蜜屋で餡蜜を二杯食べたことが翌日学生中に知れ渡って物笑いの種にされたりなど、細部にも似た場面がある。また冒頭、上京の途次の鉄道車中で、ボックス席の向いに座った男から声をかけられて誘われるという場面は、同じく漱石の「三四郎」を想起させる。「東京の悪い点」だが、主人公が自分の田舎とは違った都会の習俗や人びとの性格などを「東京だからか」とすべて東京のせいにしている点笑えるが、取り立てて獅子文六の東京観が見えてくるわけではない。
坊っちゃん」がラスト涙を誘うような哀しみに包まれているのに対し、『信子』は予定調和的結末をひっくり返し徹頭徹尾爽やかである。男=哀/女=爽という対比も見事。
福本さんも指摘しているが、「坊っちゃん」のパロディとして秀逸なのは、同僚の先生に対するあだ名付けだろう。とりわけ一番最初に出会う校長先生(女性)に信子が付ける(信子だけにしか通じない)あだ名は出色である。
校長の姿はこんなふうにスケッチされる。「六十一、二の、色の黒い、男のようにガッシリした体格の女」「男性的な声を立ててお笑いになった顔」。見た目も声も男っぽい。かくして信子は校長に“宇垣さん”というあだ名を付ける。
校長先生は、宇垣大将にソックリなのだ。つまり、髭のない、髪を結った宇垣さんだ。あたしは、全国の女性と共に、宇垣さんのファンである。
「宇垣大将」、つまり宇垣一成陸軍大将のこと。女性に対して男性、しかも陸軍軍人の名前をあだ名に持ってくるという獅子文六のセンスに度肝を抜かれた。宇垣一成は予備役にあった昭和12年に組閣の大命が下ったものの、「陸軍大臣現役武官制」という陸軍が内閣を掣肘する制度により、陸軍が大臣を出すことを拒んだため、首相になり損ねた人だ。日本史の教科書に必ず登場する。たしか丸顔禿頭で厳めしく髭を生やした人ではなかったか。ネットで顔写真を探したけれども見つからなかったけれど、胸像写真を見つけたので貼り付けておいた。女性をこの人に擬したことが獅子文六のユーモアの真骨頂だといえよう。
『信子』が雑誌に連載されたのは昭和13年。つまり宇垣の組閣頓挫という事件がまだ人びとの記憶に生々しく刻まれている(ただ組閣断念の経緯が当時の人びとに正確に報道されたのかは不明)時期であり、“宇垣さん”というニックネームは一般庶民の愛着を呼び寄せる記号だったわけだ。それかあらぬか上記引用文中には、「全国の女性と共に、宇垣さんのファン」とある。宇垣大将、そんなに人気者だったのだろうか。戦後宇垣は、公職追放が解除になったあと(昭和28年)、参議院選挙に立候補して全国区でトップ当選を果たしている。この人気は戦前からあったということなのだろうか。
ところで福本さんの本には、当時(63年)『信子』が東海テレビ制作でテレビドラマ化され、獅子文六も息子と毎回楽しみに観ていたことが記されている。信子を演じたのは芦川いづみ芦川いづみといえば、同じ獅子文六原作の映画「青春怪談」でのシンデであり、「洲崎パラダイス・赤信号」で三橋達也を何かと気づかう蕎麦屋の店員(玉子)を思い出す。これがまた可愛いのだ。
彼女のファンサイトを見つけたが、銀座松屋デパートでのサイン会の写真は長髪の彼女の姿を見ることができる。これにもドキッとした。その彼女が芯の強い正義漢の「信子」を演じたなんて、どんな仕上がりのドラマだったのか、観てみたいものである。

*1:ISBN4877143114