第52 獅子文六の赤坂を訪ねて

岩田豊雄邸

昨日触れた福本信子さんの獅子文六先生の応接室―「文学座」騒動のころ』*1影書房)の口絵として、面白い写真が掲載されている。
岩田邸で働いていた頃の福本さんを撮したものなのだが、岩田邸のテラスに立つ福本さんの背後の庭に椅子とテーブルがセットされ、テレビカメラも据えられて、その前で主人獅子文六がインタビューを受けている姿が一緒に撮しこまれているのである。
和服姿で右手に煙草を持って悠然と取材にこたえる主人の姿をバックに、エプロンを着し手を前に組んで斜に構え微笑む福本さんの姿。
庭はゴルフ好きだったという主人の意に合わせたものか、パットの練習ができそうなほど広々とした芝生となっている。この写真は福本さんを被写体に撮られたものであることは明らかなのだが、なぜこんなシチュエーションで、誰が望み、誰が撮ったのか、首を捻りつつも貴重な一葉であるとは言える。
さて同書は、姫路から上京した福本さんが赤坂の岩田邸を訪れる場面から始まっている。

東京駅から、現在廃線になっている都電に乗り、これまた現在町名が無くなっている新坂町という駅で降りて駅前のタバコ屋さんで家をたずねると、そこから、すぐ前方に見える乃木坂を上っていけば高台の上にあると教えられた。
上ろうとする坂下の右手に、聖パウロ修道院があった。その修道院を見上げるような頑丈な高い塀に沿い、ゆるやかな坂を上ると、閉ざされた大きな門につきあたった。
右手の門柱に四軒の表札が掛かっていた。その中の一軒に、間違いなく訪ねる獅子文六氏の実名である岩田豊雄という名が書かれてあった。(7-8頁)
読み進んでいくと、このほかにも、赤坂の高台にあるとおぼしき岩田邸の描写が散見され、思わず地図を持ち出して現在地の比定作業に取りかかったのは悪い癖というほかない。
ガラスを拭く窓の前方に、聖パウロ修道院の校庭が広がっている。楠や欅、樫や楡の木など、大樹が点在する異国情緒の漂っている広大な庭だ。(28頁)
文六邸の高台から坂を下って右へ階段を上ると乃木神社であった。(167頁)
すぐ裏のアジア会館ビルに滞在する肌の黒い人が、屋上でしきりに雪景色をカメラで撮っていた。(229頁)
岩田邸の地番は書かれていない。いや、地番が書かれていてすぐ特定できてしまうのでは面白くない。かくて探索・散策癖に火がついた。
手がかりは上記の叙述のみ。「聖パウロ修道院」「乃木神社」「アジア会館ビル」という建物は大きなポイントだろう。散歩のとき常に持ち歩いている地図(昭文社『どこでもアウト・ドア 東京 山手・下町散歩』*2)を取り出して乃木坂辺を探すと、あっけなくこれらの所在がわかった。
港区赤坂七丁目。いまも有名な乃木神社はともかく、他の二つの建物も失われていないのである。
幸い渋谷に出る用事がある。地図であたりをつけ、その場所を訪ねる“日和下駄”を発動させようではないか。
渋谷から地下鉄銀座線に乗り、青山一丁目で下車する。地上に出ると青山通りが東西に走り、通りの北側には広大な東宮御所赤坂御用地)の敷地が広がっている。通りの南側一帯が今回目指す赤坂である。
地図で見ると大使館が多い地域のようだ。イラク大使館もある。そういえば青山一丁目駅の構内に厳戒注意の貼紙があった。物々しく警備されているのかと思いきや、とくにそうした雰囲気は感じられない。
青山通りに面してカナダ大使館・同公邸の超近代的なデザインのビルがある。そこを南に入って歩くと下り坂になる。これが「新坂」。福本さんが下車した都電停留所の由来となった坂だ。
坂道ですれ違ったおばあさんと孫の男の子の組み合わせに見えた二人連れは、日本人であるのに英語で会話している。赤坂らしいというべきなのか。新坂を下りきったところにカンボジア大使館。建物の壁面に仏頭のレリーフが据えられている。
南北に通る新坂は道幅が狭いこともあってか意外と急に感じる。そればかりでなく、東西に走る道を左右に見ても上り下りが激しく、道がうねっている。櫛比している高級(そうな)マンション群を取り除けると、どんな地形が広がっているのだろう。全体的に見れば、東にある溜池に下っていく赤坂台地の高台ということになるのだろうが。
帰宅後明治19年参謀本部制作5000分の1地図を見てみると、このあたりは一面茶畑が広がっており、そのなかに中規模の邸宅が点在する田園風景だったようだ。
台地と窪地からなるうねうねとした茶畑の緑が広がる風景。目をつぶってその様子を想像してみる。
さらに時代を遡れば、このあたりは中小規模の大名屋敷と旗本屋敷が置かれた地域だった。
東宮御所は御三家紀州藩徳川氏の上屋敷であり、カナダ大使館辺は御小姓青山家の屋敷、また長州毛利家の分家徳山藩毛利家の上屋敷、さらに目指す岩田邸があるとおぼしき場所にはこれまた毛利氏の連枝岩国藩吉川氏の抱屋敷と旗本松平氏の屋敷があった。
よく見てみると切絵図に書かれてある道がそのまま現在も残っている。切絵図にすでに「シン坂」の名称も書き込まれている。こんな発見があるから、東京歩きは楽しい。
新坂を下りきると、東西に走る赤坂通りにぶつかる。地図には、ポイントとなる聖パウロ修道院(聖パウロ女子修道会)へつづくカギ型にくねった細い道があり(この道は参謀本部地図にも見える)、この道が行きつく先にアジア会館が示されている。細い道はこの赤坂通りからでないと入れない。
いよいよ核心に飛び込む。
赤坂通りから右に細道に入る。上り坂になっており、見上げると「私道につき通り抜けできません」の看板が出ている。いよいよそれらしい。
木々に覆われて鬱蒼と薄暗く、この木々の向こうがたぶん修道院の敷地なのだろう。ただでさえ新坂ほかの坂道を上り下りして息があがっているところ、残った体力をふり絞って坂道を上る。右側につづく塀の先に修道院の入口があって、ちょうど敷地内は工事中で中をのぞむことができた。
さらに進んで道の突き当たりに、どうも福本さんの本の口絵にあるような敷地がある。
突き当たりに門があり、表札が並ぶ。「もしや」と思い目を近づけると「岩田」の文字。一つの敷地内に確認できるだけで三軒の家があり、茶色の柱で組まれた二階建てが左に二軒、そして右に南面した青い柱の細長い二階建てが一軒。「青」の家と塀の間に相当の空間がある。
察するにこの空間こそが、獅子文六がインタビューを受けていた庭なのではないか。とすればその向こうにある「青」の家こそが岩田邸か。もとより建物がそのままという確実な証拠はないけれど、庭の感じからはそのままと判断しても差し支えないのではないか。
大使館と高級マンションの狭間で40年の間この区画が守られ、建物も維持されていることにある種の感慨をおぼえずにはいられなかった。
青山通り赤坂通りに挟まれたこの区域はいたって閑かだ。マンションの建物もなべて低層ゆえ、岩田邸の上に広がる空は広い。
福本さんの本には息子の敦夫君(現在の亭主?)が望遠鏡をもってカシオペア座など夜空に輝く星をよく眺めていたことが記されている。意外にこのあたり、いまも夜は星空が眺められるかもしれない。

*1:ISBN4877143114

*2:ISBN4398631011