今年出会った作家(その1)―獅子文六

獅子文六先生の応接室

これから断続的に何回かに分けて、今年初めて読んだ作家について書いていきたい。
今年私に古本屋めぐりのモチベーションを与えてくれた書き手たちである。なかでももっともインパクトが強かったのは、獅子文六岩田豊雄)である。
もとより彼の食味随筆系の本は持っていたし、珍しい都電論『ちんちん電車』も読み、書友ふじたさん(id:foujita)が獅子文六に熱中している様子を横目で見ていたけれど、小説とは縁がなかった。
読むに至った大きなきっかけの一つは、小林信彦さんによる再評価をうながすエッセイである。『にっちもさっちも―人生は五十一から』*1文藝春秋)に収録されている「獅子文六を再評価しよう」という一文のなかで、「いかに出版不況とはいえ、こういう作家の作品が書店に全くないのはモンダイである」と書いているのを読んで、動かされないほうがどうかしている。
直接のきっかけは、古書ほうろうで代表作『てんやわんや』*2新潮文庫)を入手したことだった。それは群よう子さんの解説が新たに付された改版の存在をこのとき初めて知り、勇躍購った。直後に読んでこんな面白い小説があるのかと驚いたのである。4月のことだった。
その後文庫本を中心に作品を買い集め、以下のような順番で少しずつ読んでいった。

  1. 『コーヒーと恋愛(可否道)』(角川文庫)5月
  2. 『自由学校』新潮文庫)6月
  3. 『青春怪談』新潮文庫)8月
  4. 『海軍』*3(中公文庫)8月
  5. 『但馬太郎治伝』*4講談社文芸文庫)11月

そのすべてが面白く、ハズレがないのにまた驚かされた。テーマの選び方、ストーリー展開の意外性、テンポのよさ、ユーモア、何をとっても不足がない。
また小説作品と同時に、獅子作品が原作となっている映画を観ることができたのも運がよかった。7月に市川崑監督の「青春怪談」、9月に渋谷実監督の「自由学校」二本である。
この二本はいずれも原作を読んでいる。前者は映画が先、原作があと、後者は逆である。
映画を観て思ったのは、映画を先に見てから原作を読んだほうがいいかもしれないということ。原作がすこぶる面白いので、原作を読んでからだと映画が色褪せて見えてしまうのである。映画自体も面白いのだが、その映画を観てストーリーを知ってからでも十分楽しめる強靱な力を原作は持っている。
こんな私の一年を締めくくるにうってつけの本が出た。福本信子さんの獅子文六先生の応接室―「文学座」騒動のころ』*5影書房)である。
著者の福本さんは22歳のとき、小学館の雑誌に載った岩田家のお手伝いさん募集の知らせに応募し採用された。それまで勤めていた東芝を辞めて姫路から上京したのが1963年10月。それから1年余りの間赤坂にある岩田家に住み込みで働いたという経験を持つ。
本書はそのときの獅子文六一家の暮らしぶりを内側から描いた得がたい一書となっている。
1963年から翌年にかけて、獅子文六の身辺は何かと慌ただしかった。
芸術院会員に加えられたことによる祝賀ムードがただよい、その反面で63年に起きた文学座分裂騒動(福田恆存による新演劇集団「雲」の創設)と、座員三島由紀夫作「喜びの琴」上演中止をめぐる紛糾で三島が脱退し、新たに新文学座をつくろうという動きが交錯する。
文学座創設時の三幹事、すなわち岸田國士久保田万太郎岩田豊雄のうち、岸田・久保田両氏はもうすでに世になく、一人岩田豊雄すなわち獅子文六だけが存命で、座員たちの心のよりどころとなっていた。
この騒動の渦中に巻き込まれたかたちの岩田邸には、杉村春子中村伸郎芥川比呂志三島由紀夫といった当事者が続々相談に押しかける。福本さんはお手伝いさんの立場で彼らの様子を事細かに観察する。その描写がなんと精彩に富んでいることか。
とりわけ三島のイメージとは裏腹な小柄で華奢な姿に驚き、律儀で物静かな芥川へ好感を持つなど、客観的すぎないところも、叙述に起伏を与えている。
このほか文学座とは無関係だが、福本さんの目から見た中野好夫扇谷正造小林秀雄らの肖像が印象深い。
獅子文六は二度も妻に先立たれ、三度目の結婚をしていた。年齢の離れた若い妻と一人息子の三人暮らし。
60歳にして授かった一人息子を溺愛する老父として、またエゴイストで自分の気に入らないことがあるとすぐ癇癪玉を破裂させる癇癖の人間としての獅子文六の姿が生々しい。
食通として、自ら料理のコツを福本さんに伝授する姿や、近所辺を散歩して町の移り変わりに敏感に反応する様子も微笑ましい。
そもそもたくさんいたお手伝いさんの応募者のなかでなぜ自分が選ばれたのか。
福本さんは給料日に獅子の著書一冊を頂戴したいと願い入れるほどの文学好きではあったが、応募書類でそれをとりわけアピールしたわけではない。この謎が最後の章で解き明かされる。もしかしたら、戦前に書かれた「信子」という作品にちなんだのではないかということ。この「信子」のあらすじが紹介されているが、これを読んでいたら無性に「信子」を読みたくなってきてしまった。
実は獅子熱が昂じて全集も買ってしまったのだが、ついに我慢できずに全集版の「信子」に手を伸ばした。獅子熱の締めくくりに福本さんの本を読もうと思っていたのだが、かえってその熱を再燃させてしまったようである。
芸術院会員に選出されたとき知人に配った風呂敷に染め抜かれた座右の銘がいいので、最後に紹介したい。

止まった時計も 日に二回 正確な時を指す  獅子文六
その心は「どんな馬鹿でも役に立つときがある」
この銘の意味をめぐって交わされた、漱石の「猫」に描かれるごとき笑いを誘う夫婦の問答を福本さんが見事に書きとめてくれた。

*1:ISBN4163596305

*2:ISBN4101073015

*3:ISBN412203874X

*4:ISBN4061982397

*5:ISBN4877143114