古本話+人情噺=古本噺

古本夜話

出久根達郎さんの文庫新刊『古本夜話』*1ちくま文庫)を読み終えた。
出久根さんの本を読むのは久しぶりだ。『本のお口よごしですが』(講談社、のち講談社文庫)で講談社エッセイ賞を、『佃島ふたり書房』(同上)で直木賞を受賞された90年代の前半、いまから十年ほど前は、『古本綺譚』(中公文庫)、『漱石を売る』(文藝春秋、のち文春文庫)、『猫の縁談』(中央公論社、のち中公文庫)など、古本屋店主のかたわら古本エッセイの名手としての地位を不動のものにした著作を出るたびに買って、読んでいた。ただし上記『佃島ふたり書房』をはじめとする小説作品はまったく読んだことがない。
そのうち次々と刊行される古本エッセイとも距離をおくようになり、現在に立ち至っていた。今回『古本夜話』を買い求めたとき、古本エッセイ好きの私がなぜ出久根さんの本をしばらく買ってこなかったのだろうと、われながら不思議に感じていたのだった。ところが読んでいるうちに、その理由をだんだん思い出してきたのである。
古本エッセイといえば、近年では鹿島茂さんや岡崎武志さんに代表されるような、マニアックでありながら同じ道の好きな人間にとっては共感を抱かせるものを思い出す。少し前に遡ると、梶山季之せどり男爵数奇譚*2ちくま文庫)や紀田順一郎さんによる一連の古本屋探偵小説にあるような、マニアックを通りこして「書痴」というべき想像を絶する人間たちの姿を描いた作品を好きで読んでいた。
つまり古本エッセイ・小説とは、常軌を逸するようなマニアックな書痴を対象にしてこそ面白いと考えるのである。
これに対して出久根さんの場合、そうした味わいに乏しく、古本を通じて生みだされる人と人、本と人との関係をあたたかいまなざしで見つめペーソスあふれる筆致で味つけした物語が多い。つまり人情噺であり、昨日のつながりでいえば「書巻の気」が稀薄なのである。
ライバルを蹴落としてでも欲しい本を入手しようとする書痴の生態と全編にみなぎる「書巻の気」こそが古本話の真髄だと考える者にとって、古本話と人情噺は水と油。出久根さんの本を読まなくなったのも、推測するにそうした感情からだったのではないか。
本書を読み出した当初、やはり同種の人情噺的なあたたかさを感じ、自分の好みとは肌合いが違うと思った。この間人情噺的な物語も好きで読むようになってきたにもかかわらず、古本の話の中に味付けされると違和感を感じてしまうのだった。
しかしながら不思議なもので、連作の掌編小説風のスタイルをとる「店主敬白」「紙魚風発」あたりを読んでいるうちに、これもまたいいものだと考え直すようになったのである。
「店主敬白」は、店頭に「探求書承り候、必ず納品仕り候」というビラを掲示したことで生みだされたエピソードを描いた連作、「紙魚風発」は、「最近面白い本あったかい」と会うごとに尋ねあう仲間たちと「あった会」という集まりをもち、最近出会った本のエピソードを語り合うという、「百物語」的な趣向の連作である。ご自身の体験に基づく実話もあるだろうが、ときおり幻想味のある話も飛び出し、読んでいて飽きない。どうみても出久根さんはうまいのである。
だから、古本エッセイという側面からでなく、フィクションが織りまぜられ、古本が絡んだ人情噺ということで、あらためて出久根さんの作品世界に興味をもってきた。
本書の解説は岡崎武志さんで、岡崎さんは「出久根さんの古本エッセイの大ファンで、そのすべてに目を通している」と書いており、最後のほうでこんなふうに出久根古本エッセイの魅力をまとめている。

そういえば、銭湯と古本屋はどこか似ている。古本屋へ来る客も、古本の埃と匂いにどっぷり浸かりながら、しばらく時間とまどろんで、世塵と人生の垢を流して帰るのだった。そんな者たちの哀歓を出久根さんの古本噺はしっかり捉まえている。
この一節を読んで膝を打った。そう、出久根さんの書くものは古本話でなく、古本「噺」なのだ。岡崎さんがあえて「話」でなく「噺」の語を選んだその微妙なへだたりにこそ、私が出久根さんの作品を見直したポイントがひそんでいるような気がする。
ちなみに本書はちくま文庫オリジナルであるが、構成こそオリジナルであるものの、旧著『古書彷徨』・『古書法楽』(ともに中公文庫)からの再編集であることを著者自身が断っている。
もとからの出久根ファンにとっては目新しい文章はないけれども、著者は、新著のつもりで読んでも楽しめるのではないか、と「強気の自負」を表明している。