続・書巻の気

絵具屋の女房

丸谷才一さんの新刊エッセイ集『絵具屋の女房』*1文藝春秋)を読み終えた。
丸谷さんのエッセイ集はどれも面白いから、読み始めると止まらず最後まで一気に読まされるものだったが、今回は他の本に目移りしたり、あれこれと気が散る事情があってずいぶん時間がかかってしまった。念のため言うが、面白くなかったからではない。
諸事百般談論風発、知的刺激に満ちた語り口は相変わらず。今回はなぜか吉川弘文館の『国史大辞典』が大活躍するエッセイが多かったように思う。
ということは日本の歴史にまつわる話があちこちに登場するというわけで、古文書の蒐集家として名前を知っていた市島春城(謙吉)の獄中体験談(『獄中旧夢譚』)を、安部譲二さんのベストセラー『塀の中の懲りない面々』と比較して論じた塀の中や、日本には養子が多いとの指摘にはじまり、これを女系制の習俗と結びつけて天皇家は実は養子で成り立っていたと喝破する「養子の研究」など、読んでいてゾクゾクする気分だった。
また、「英雄色を好む」という一篇では、秀吉の朝鮮出兵に説き及んで、なぜこんな愚挙が企てられたかという理由についての最近の学説を紹介したあと、理由を説明する学者たちのギクシャクぶりをちくりと皮肉る。そして「歴史にイフはない」という考え方に反対したいたちだとして、「歴史にイフはない」という考え方の本質をこう解説する。

しかし「歴史にイフはない」といふのは歴史の展開が個人の恣意とかそれとも偶然のいたづらよりももつと格が上の、時代の流れとか社会の構造とかによつて決まるもの、と思ふせいなんですね。
かくして朝鮮出兵の理由をこれによって説明しようとするとギクシャクする結果となる。
そこでおもむろに丸谷さんはこう切り出す。
そこで、単なる個人の妄想とか、あるいはもつとはつきり言つてボケとかが原因だと思ひたくなる。若年のころは単なる放言であつたものが、老いて権力を握ると、もう現実的条件による歯止めがきかなくなつた、と思ひたくなる。
やんややんや。あ、いや、ここで喝采をおくるのは私の立場としては不適切か。むしろ反省すべき(?)なのかもしれない。ともあれ、こうした思考は鹿島茂さんが『情念戦争』*2集英社インターナショナル、感想は11/7条)で試みた方法に通じるのではないだろうか。
鹿島茂さんといえば、本書に一度登場する。「あのボタン」という“クリトリス発見”に触れた一文のなかで、発見者マテオ・レアルド・コロンボを主人公にした評伝小説『解剖学者』(作者はアルゼンチンの作家アンダシ)を評して、「つまり書巻の気にみちてゐる小説。澁澤龍彦鹿島茂的な書巻の気、とでもいふべきか」と述べている。
この場合エロティックにしてブッキッシュとでも言うべきだろうか。「書巻の気」という言葉を私は辰野隆のエッセイで知った(『忘れ得ぬ人々』*3講談社文芸文庫)。このことは本年6/3条で触れている。辰野の文章をふたたび引用したい。
然るに「書巻の気」というと、之は必ずしも批難の意味ばかりではなく、時に褒める形容にも使われるらしい。いまだ書巻の気を脱せずと云えば貶すことになるが、書巻の気掬すべしと云えば匠気に染まぬ品格を褒めることになるのだろう。
丸谷さんの用法としては褒めていると解していいだろう。澁澤と鹿島さんを「書巻の気」という語で連絡させ、なるほどそういう小説かと読む者を納得させる気合いの妙。丸谷さんの筆によって鹿島さんがめでたく澁澤とつながったことを寿ぎたい。「書巻の気」という言葉が素敵なので、いつかどこかで使おうと狙っている。