出不精を悔いる

近代建築 街角の造形デザイン

去年は諸事あって身辺余裕がなく、ただ散歩だけを目的に歩くということがほとんどなかった。職場周辺、とりわけ谷根千地域を歩くこともほとんどなくなった。最近この地域も変貌してしまい、うまく説明できないけれど、東京に越してきた当初に持っていたある種の雰囲気を失った観があるのも理由のひとつだ。たんにこの地域を見る自分の目が変わってしまっただけなのかもしれぬ。
さて久しぶりの文京ふるさと歴史館。今回の企画展は、文京区にあるユニークな邸宅や建築物の意匠に注目して紹介するというもので、まだまだこの界隈には知られざる名建築が眠っているものだとあらためて感じる。
いや、名建築は名建築なのだが、それがマスコミにも取り上げられるような目立つものではなく(伊東忠太湯島聖堂も展示にあったが)、ごく普通の個人住宅などとして残っているところがいい。小石川の遠藤医院や西片にある建築家清水一自邸などまさにそれにあたる。
これら邸宅を飾っていた装飾品や家具などの実物が展示されているということは、とりもなおさずそれらの元々の居場所がなくなったことを意味する。要するに、すでに解体されてしまい、保存するに値する「遺品」が同館に収蔵されたわけである。しかも昨年平成18年解体というキャプションが目立ったのには暗然たる思いだった。
もっともっと歩いていれば…。むろん小石川や西片、根津などを歩いていてもこれら建築物に出会えたという保障はないし、出会ったとしてもそのときだけで憶えていないことだってありうる。ただ建築物はやはり土地や場所と不即不離のものだから、現地で現物を見るだけで、写真だけでは味わえない実感がともなう。残念である。
興味を持った建築物。もともと西片町一帯の地主であった旧福山藩主阿部家の住宅(移築されている)。そこに大正期西片町の町内地図が展示されていた。ちゃんと「から橋」も記載されている。池内紀さんの連作短篇集『街が消えた!』(新潮社)でも知られる、いろは順で区分けされた地番が示されており、この複製が猛烈に欲しくなった。
これまた西片にある旧佐佐木信綱邸の書庫「万葉蔵」。年に幾度か、昼休みぶらぶら散歩しているとき佐佐木信綱邸前を通ることがあるけれども、そこにこのような蔵が併設されているとは知らなかった。ダイヤル式の鍵が数字のかわりイロハになっている。
これに対し、千駄木に現存する森於菟邸(清家清設計)などは貴重な建築物となるのだろう。また、先述した建築家清水一に興味を持つ。建築作品より、住んでいた西片界隈の往事をふりかえるエッセイ(著書の該当頁が展示)を読んでみたい。

さすがアイリッシュ

「死者との結婚」(1960年、松竹大船)
監督・脚本高橋治/原作ウィリアム・アイリッシュ/脚本田村孟小山明子渡辺文雄東山千栄子斎藤達雄/瞳麗子/高野真二

仕事帰り家と反対方向になる阿佐ヶ谷までわざわざ映画を観に立ち寄ることが苦にならなくなってしまった。人は変わるものである。
この映画は、まだ観たことがない高橋治監督作品であったことと、ウィリアム・アイリッシュ作品(未読)を原作としていること、以上ふたつの点から関心を持った。
元競輪選手の男との間にできた子供を妊娠中の小山明子(綺麗!)は、その男から捨てられ、死ぬ覚悟で瀬戸内海航路の客船に乗り込む。身投げする直前に新婚夫婦に助けられ、妻の船室で彼女と二人きりで身の上話を打ち明け合う。助けてくれた女性のほうは天涯孤独の身だったが、夫となった男性とアメリカで結婚し、これから初めて夫の実家に向かう途中という、小山とは正反対に幸福の絶頂期にあった。まだ夫の家族とまったく対面しておらず、初めて会う姑の様子を心配している。彼女は小山明子同様妊娠していた。伏線その一。
彼女は顔を洗うとき結婚指輪を外す癖がある。小山から紛失するのではと注意され、「じゃあ代わりにあなたがはめておいて」と軽く答える。戸惑いながら彼女の指輪をはめる小山。伏線その二。まあここが不自然と言えば不自然。
その瞬間船に衝撃が走り、船室に海水が流れ込んでくる。沈没事故を起こしたのである。意識を回復した小山は病院のベッドに横たわっていた。脇に置かれていたカルテを見ると、一緒にいた新婚夫婦の女性の名前になっている。看護婦に訊ねると、その夫婦は亡くなったという。指輪をしていたこともあり、小山は結婚したばかりの夫を失った女性と間違えられていたのである。
その夫の実家というのが、四国のとある町でも随一の名家で資産家だった。舅(斎藤達雄)と姑(東山千栄子)、弟(渡辺文雄)から暖かく迎えられ、真相を告白できないまま夫を失った嫁としてその家で暮らすことになる。
真実を隠したまま、包容力があってすべてに優しい姑に見守られながら暮らしてゆくなかで、懊悩する小山明子。ストーリーはその偽りの生活に少しずつ綻びが見え始め、小山がこれを弥縫しようとするスリルが軸になっている。
そこにかつて自分を捨てた男が現われる。彼から執拗に脅迫されたことに窮した小山は男の殺害を計画するが、男の部屋に行ってみると彼はもう死んでいた…。この殺人事件の意外な犯人には正直アッと驚かされる。嘘がばれてゆくスリルと意外な真相、ふたつによってこの映画は面白いものとなった。ただラストシーンの成り行きだけは納得できなかったが。
筋書きが原作どおりであるならば、さすが『幻の女』のアイリッシュ喝采を贈りたくなるが、実のところ原作よりこの映画のほうが犯人の意外性に勝るのではあるまいか。しかもその意外性は、同時期の日本映画をたくさん観た人ほど、強いものであると思われる。そのアイディアだけで語りぐさになる資格十分の作品である。