散歩の進歩

散歩もの

久住昌之(作)谷口ジロー(画)『散歩もの』*1(フリースタイル)をようやく手に入れた。
以前読んだ阿奈井文彦名画座時代』*2岩波書店、→4/6条)と同じく『通販生活』連載作品である。阿奈井さんの連載は2002年夏号から2005秋号まで、『散歩もの』は2003年夏号から2005年夏号だから、ちょうど重なっている。「名画座時代」「散歩もの」二つの連載を抱えていたこの時期の『通販生活』誌は充実していたものだった。なんて、前に書いたけれど、阿奈井さんの連載のほうは単行本にまとめられてから読もうと真面目に読んでいなかったのだが。
それにくらべ「散歩もの」は毎号楽しみに読んでいた。なにしろかの『孤独のグルメ*3(扶桑社文庫)と同じコンビであり、その雰囲気を濃厚に受け継いだ続編のような内容だったからだ。
フリースタイルから単行本で出ると知って鶴首して待っていたが、忙しさにまぎれて忘れてしまっていた。その後だいぶ経って、どなたかのサイト(退屈男さん?)で本書がすでに出ていたことを知った。そのとき書籍部や近場の書店を探したもののあとの祭りで、結局手に入れられずにいたのである。漫画ではあるがコミックとも異なり単行本に近いものゆえ、新刊時に見かけないと探し当てるのが困難になる。どこの棚に収まるべき本なのか、帰属が曖昧だからだ。案の定漫画のコーナーには見当たらず、文芸関係のところにもない。そもそも新刊で並んでいたのかすら疑問である。
今回こうして手元にやってきたのは、所用で神保町に出たついでに、気まぐれで久しぶりに立ち寄った書肆アクセスに並んでいたのを見つけたからである。見つけたときに買わないとこの次いつ出会うかわからない。買ったものはすでに第二刷になっていたから、ある程度売れているのだ。
帰宅してさっそく包みから本を取り出して読み始めた。全8話、毎回読んでいたと思っていたのだが、記憶にない話もある。たんに忘れているのか、読み逃していたのか。連載時から印象に残っていた話で、今回あらためて読んでさらに散歩心を掻き立てられたのが、品川の旧東海道を歩く第二話「品川の雪駄」と、第八話「目白のかき餅」だった。
作者久住さんは、「散歩ものの原作作業 あとがきにかえて」において、実際連載で取り上げられることのなかった中野散歩の取材記を紹介し、『散歩もの』の方針や、取材がどのように作品化されてゆくのかについて、具体的に方法を教えてくれている。それによれば、取材のための散歩にあたり、自分に三つの決め事を課したという。

1 「観光ガイド」や「町歩きマニュアル」など、本やインターネットを調べて出かけない。
2 事前に地図は見ても、歩き始めたら、その時その時の面白そうな方へ、積極的に横道にそれる。
3 時間を限らず、ひとりでのんびりだらだら歩く。
散歩の楽しみは、たしかに上のようなやり方に尽きるのかもしれない。
わたしの場合で言えば、東京に来た当初は東京のおいしい店を紹介するガイドブックや、『散歩の達人』誌などを見たり、ネットでラーメン屋情報を仕込みそこを目指して出かけ、それを散歩と称していた。少しずつ東京を知るにつれ、ガイドブックや雑誌のたぐいはほとんど購入せず、情報はネットに頼るようになった。さらに事前にネットで調べてそこを目指すというやり方も放棄するようになった。
たまたまどこか知らない町に出かける用事があり、帰りに時間があれば目的地だけ定めて適当に歩き回り、おいしそうなラーメン屋があればそこに入ってみたり、古本屋を見つけたら飛び込んだり、そんな散歩を心底好むようになった。もはや有名ラーメン店にも、マニアックな古本屋にも執着心がなくなっている。
自分は散歩好きであると胸を張る勇気はないが、散歩が嫌いではないという意味での「散歩者」としては、自然な成り行きなのではなかろうか。これを進歩、成長と言えるのかもしれない。
本書『散歩もの』では、盗まれた自転車を探しに集積所におもむき、帰ろうとしたらバスが直前に出たばかりでやむなく歩くことになったり(第一話)、会議のため別のビルに出向いた帰り道だったり(第二話)、友人宅に深夜までいたため電車がなくなり歩いて帰る羽目になったり(第五話)と、積極的な目的を持った散歩ではなく、“歩くことを余儀なくされた”という受動的なシチュエーションでの話が多い。
こうしたシチュエーションに置かれたときこそ、「散歩者」はその能力をいかんなく発揮する。興味を惹く横丁を見つけたら迷うことなく折れ、おいしそうな食べ物屋が目の前にあらわれたら入ってみる。選択の当たり外れは二の次であって、その選択の瞬間こそがもっとも楽しくスリリングな体験になる。ひたすらおのれの直感を信じた気ままな行動にこそ散歩の愉悦があるのであり、直感はそんな散歩体験を積み重ねなければ研ぎ澄まされない。
マガジンラックの隅に埃をかぶって打ち捨てられたガイドブックや雑誌の山は、いま見れば笑止なものでしかないが、「散歩者」としての経験値を積むための必須アイテムだったと思えば、処分しようにもできずにいる。

二歳児も遊ぶ手を止めた

俺は待ってるぜ」(1957年、日活)
監督蔵原惟繕/脚本石原慎太郎石原裕次郎北原三枝二谷英明/小杉勇/波多野憲/草薙幸二郎/植村謙二郎

蔵原惟繕監督のデビュー作。石原裕次郎は、横浜の波止場にある船員相手の食堂で働きながらブラジルに渡った兄からの連絡を待つ元ボクサーという役。将来を嘱望された歌手で、喉を駄目にしてからはキャバレーの雇われ歌手になりさがり、その境遇が嫌で逃げてきた北原三枝を匿うことで、石原はキャバレーの経営者である二谷英明一味につけ狙われる。実は石原が待っていた兄は、渡航前に二谷に殺害されていたのである。
物語は石原が兄の行方を追いかけ、真実を明らかにしてゆくというミステリータッチで進行する。最初は「台詞がくさいなあ」と思いながら観ていたが、次第にミステリー味に惹きつけられた。わたしにとっては前に見た「鷲と鷹」よりも随分面白く感じたのである。港というより波止場と表現したほうがいいような無国籍的雰囲気と白黒の画像がフィルム・ノワール感を醸成している。
関川夏央さんは『昭和が明るかった頃』(文春文庫)のなかで、裕次郎と敵役の二谷英明が立ちまわりをするラストシーンは、蔵原のシャープかつモダンなセンスが十二分に発揮されて日本映画の暴力描写中屈指のものになった」(106頁)と指摘するが、たしかに息を呑むラストだった。機関車トーマスのおもちゃで遊んでいた2歳10ヶ月の次男が、テレビに流れている殴り合いのシーンに思わず手を止め、エンドマークが出るまで見入っていたのが良い証拠である。
余談だが、この映画での石原の役名は「島木譲次」。名前を見て「あれれ」と思った。吉本新喜劇パチパチパンチの島木譲二と関係あるのかしらん、と。Wikipediaの「島木譲二」項によれば、まさに芸名はこの映画の役名に由来しているらしい。しかも生前の石原に使用許可を求めに行ったらしいという話まである。島木さんは映画の島木譲次同様元ボクサーだったのか。ひとつトリビアルな知識が増えた。
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