橋本治の強靱な論理

「三島由紀夫」とはなにものだったのか

いま思えば90年代初頭の河出文庫の質の高さは目をみはるものがあった。澁澤龍彦種村季弘二人の著作をはじめ、二人につながる中野美代子さんの本や、各国「怪談集」アンソロジーなどは、いまでもわたしの書棚に並んでいる。
だから、作者や作品のことをよく知らなくとも、河出文庫に入ったのだから面白いものに違いないと、河出文庫に強い信頼を寄せていた。そのころ本好きの道を歩みはじめたばかりだった学生のわたしは、河出文庫贔屓だったのである。
当時出たシリーズとしては、橋本治南方熊楠のコレクションがある。中沢新一さんが責任編集にあたり、全冊に長篇の解説を書いていた南方熊楠は専門分野からして興味を持つのは当たり前だからおくとして、そのころ『桃尻娘』の作者といった程度の知識しかなかった橋本治さんの作品が「コレクション」と銘打たれて文庫化されたことに、「じゃあひとつ読んでみようかな」という気持ちになったのは自然の流れだった。
そんなきっかけで購った『ロバート本』『デビット100コラム』のようなコラム集におけるテーマの多彩さと、そこで展開される柔軟な思考、意表をつく指摘にすっかり魅了され、さらに『革命的半ズボン主義宣言』などの論理に幻惑され、ひと頃完全に橋本治の世界にはまっていたのである。古本で橋本さんの著作(小説以外の本)を集め、最終的に『江戸にフランス革命を!』あたりまで、無我夢中になって読み進めた。
それから最近までぱったりと読まなくなってしまったのは、橋本さんの著作で展開される強靱な論理の力に圧倒され、自分の頭では処理しきれなくなったことが大きい。明晰なのか複雑なのか自分でもさっぱりわからぬまま橋本作品を愛読したものの、結局ついていけなくなった。いま書棚を探しても、そのころ掻き集めた橋本作品がまったくなくなっているので、今後年齢を重ねていくにつれなおさら橋本さんの論理を噛みくだくことが難しくなるだろうと観念して、処分してしまったのに違いない。
『春の雪』映画化により三島作品が注目されつつあるなか、その橋本さんが、『春の雪』を含む『豊饒の海』を中心に三島作品を読み解いた評論『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』*1新潮文庫)が文庫に入ったので、久しぶりに橋本さんの世界にひたるのも悪くないかと、読む気を起こした。単行本で出たときにも気にはなっていたものの、やはり上記の理由から敬して遠ざけていたのである。
もとより映画化を機に自分のなかでも『豊饒の海』(とくにそのなかでも面白いと考えている『春の雪』)を読み返してみたいという気分が高まりつつあったことに加え、目次に「松本清張を拒絶する三島由紀夫」だとか、「『喜びの琴』事件」「杉村春子から水谷八重子」「恋すべき処女―六世中村歌右衛門」といった心惹かれる節タイトルが並んでいたこともあり、さっそく読んでみた。
橋本さんにとって三島由紀夫は、大きな影響を受けたわけでもなく、積極的に論じたいという対象ではなかったという。それゆえにこそ可能だったというべきか、三島由紀夫という作家のスキャンダラスなプライベート穿鑿を避け、三島作品に書かれてある文章だけを丁寧に読み解きながら、驚くべき解釈を提示している。
いま「驚くべき」と書いたのは、あくまで自分が驚かされた個々のポイントという程度にとどまる。相変らず橋本さんの論理は強靱にして精緻きわまるもので、わかりやすそうでなかなか理解することができなかったからだ。
たとえば「すごい!」と感動したのは、『豊饒の海』に横たわる重要な思想である「阿頼耶識」の解釈。いろいろな三島論を読んできたけれど、これほどわかりやすくすっきりと「阿頼耶識」なるものを解説した文章ははじめてだった。

「自分」がいて、その周りには、膨大な数の「自分ではない他人」がいる。「自分」がその「他人」の中で生きている以上、「自分」と「他人」との間には、相互に「影響力」が生まれる。世界は人同士の「影響力」に満ち満ちて、そのなかでいろいろなものが形成されて行く。それでいいのではないかと、私は思うのである。(72頁)
霊魂死滅のあとに残った他人への影響力、これが「阿頼耶識」だという。「『豊饒の海』を書く三島由紀夫」は死んでいるが、読者の胸の中には「『豊饒の海』を書いた三島由紀夫」が残り、その人の何かに影響を与える。残るすなわち輪廻転生。なんと簡単な説明だろうか。
難しいと思っていた作品の解釈について、単純明快に指摘するのはこれに限らない。『仮面の告白』もそうだし、『サド侯爵夫人』も同じ。なるほどそういう意図で書かれた作品なのかと膝を打った。とりわけ『仮面の告白』では、それを三島由紀夫という虚のペンネームで書いてしまったことがのちの自殺につながると結論づける。難しい論理なのだが、何となく納得できる。
こういう論理主体の本を忌避して久しかったが、たまには脳味噌をいじめることも必要だと思い直した。
先にタイトルに惹かれたと書いた節については、松本清張を除く三篇は本論でなく末尾に「補遺 三島劇のヒロインたち」のなかに収められた半ば独立した文章で、それぞれ本論で論じられた三島像を前提にしながら、実は杉村春子水谷八重子、六代目歌右衛門を論じた刺激的な俳優論となっていて、とても面白かった。三島を通すと杉村春子水谷八重子の資質の違いがこれほどまでに際立つとは。
「黒蜥蜴」の初演が水谷八重子芥川比呂志であるが、橋本さんは水谷八重子は三島自身がキャスティングしたのではないのではないかと推測している。この水谷・芥川による黒蜥蜴の印象的な場面が引用されているのだが、水谷八重子をほとんど知らないわたしですら、その字面を読むだけでゾクゾクきた。橋本さんはこう書く。
二人が声を揃えて《そして最後に勝つのはこつちさ。》と言った時、その声は怒りに近いような荘厳として響き、枯れた木に金色の生命が通って、咲くはずもない花がその枝に一斉に開くような、とんでもない感動が現れた。それは演劇の醍醐味である。(434頁)
橋本さんにしてはめずらしくレトリックを駆使してこの場面を描いている。映画で木村功美輪明宏が演じた『黒蜥蜴』は観たことがあるが、うーん、この初演の舞台も観てみたかった。

200分は長すぎる

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「陽のあたる坂道」(1958年、日活)
監督田坂具隆/原作石坂洋次郎石原裕次郎北原三枝芦川いづみ川地民夫/小高雄二/千田是也轟夕起子/山根寿子

関川夏央さんの『昭和が明るかった頃』を単行本と文庫本で二度読み(→10/29条)、もっとも観たいと思った日活映画が「陽のあたる道」だった。
とはいえ、200分というのはいかんせん長すぎる。借りてびっくりした。3時間20分! レンタルしてきたものの、さまざまな事情で映画を満足に観る余裕がなかったから、一気に観るのではなく、細切れに観ざるをえなかった。
さて関川さんはこの映画について、「流行の思潮を追認したうえでその範囲のなかでのみ不良行為を行なうという意味で、もっとも日活的な文芸映画」(文庫版78頁)と規定する。そのうえで、この映画のなかでも印象的なシーンについて、次のように書いている。

家族会議や、異母兄妹の握手のあとで合唱される讃美歌のシーンはいかにも唐突で、見るものを赤面させかねないのだが、それがこの元来きわどい綱渡りのような映画を崩壊させることには必ずしもならないのは、この場合のキリスト教は宗教としてではなく、この家族が信奉している、または信奉しなければならないとしている西欧型個人主義の象徴として、また芦川いづみのいう「みんながいっしょにいるための嘘」として機能していることが観客にもいちおう諒解されるからだという複雑な構造を『陽のあたる坂道』は内包しているのである。(同44頁)
田園調布に大邸宅を構える出版社社長(千田是也)一家。妻(轟夕起子)、優秀だけれど女にはだらしがない長男(小高雄二)、不良性をにじませた次男(石原裕次郎)、子どもの頃の事故で片足を悪くした長女(芦川いづみ)という家族。この家族は「西欧型個人主義」を信奉し開明的で、家族会議を開いて率直に議論しあうことが家族のまとまりを維持すると信じている。しかしそのいっぽう、末娘の芦川いづみは「みんながいっしょにいるってことには、なんかの嘘が必要だわ」と自己批判も展開する。
何でも包み隠さず家族に話すことが建前なのだけれど、実際に各人は「なんかの嘘」を後ろに隠し持っており、そのことが家族関係の潤滑油として機能する「必要悪」と認めているふしもある。ここから、以前読んだ角田光代さんの『空中庭園*1(文春文庫、→7/11条)を思い出した。
たしか『空中庭園』の家族も、何事も包み隠さずというのがモットーなのに、それぞれが他人に話せない秘密を持っていた。家族に隠す秘密とは何か、この違いが、「陽のあたる坂道」の昭和30年代と現代の違いをはっきりと浮かび上がらせているというべきなのだろう。
昭和30年代ブルジョア家庭的な秘密とは、父の浮気と娘の事故の原因だ。父はかつて外に愛人(山根寿子)をつくり、子どもを産ませた。それが石原裕次郎なのだ。轟夕起子はそれを「自分も悪い」と認めたうえで、自らの子として育ててきた。
芦川の事故は石原が原因だとされているが、実は長男小高が悪く、石原が罪をかぶってきた。そのことに対し長男が次男に抱きつづけたコンプレックス、娘が女性として生きていくうえで足の悪さを気にするというコンプレックス。
先に関川さんが引用した讃美歌のシーンは、父母が子どもたちに対して石原出生の秘密を打ち明け、みんながいちおう理解したあと、「では久しぶりに歌でも歌いましょう」となる。轟がピアノを弾き、家族はそのまわりに集まってコーラスする。北原三枝は芦川の家庭教師でその場に立ち会い、困惑しながら付き合う。このシーン、やはりわたしも観ていて赤面するというより、苦笑してしまった。でもよく考えれば、庄野潤三さん一家も家族で歌ったりしている。
芦川は、足のために子どもが産めない身体なのではないかと心配し、単身大学病院(たぶん信濃町の慶応大学がモデル)の産婦人科に行って診てもらおうとする。「口の悪いという噂を聞き、それでも受診者が絶えないからきっといい先生なのだろう」とはっきり言われて、子どもっぽい受診動機にも苦笑しながら芦川を診るのが小杉勇
この役者さんについては、やはり濱田研吾さんの『脇役本』*2(右文書院)が詳しい。濱田さんは愛情を込めて小杉を「脇役としてはダイコンだった」と書く。「風格と存在感、重々しさとツブの悪いセリフまわし」「コスギダイコンは、煮つまりのあんばいが濃すぎて大味だった」(以上151頁)とも。
もっともこの映画についてだけ言えば、いかにも昔の大学病院の教授という尊大さをあわせもった風格、生意気なことを言ってくる芦川に立腹しつつも、最終的にはちゃんと診察し安心させてあげるという優しい医師を演じ、印象は悪くない。
ただ驚いてしまったのは、芦川を診るとき、煙草をふかしながら問診していること。当時は産婦人科でもこんなことが許されたのだなあ。時代を感じる。
性格がひねくれて生意気な娘の芦川、芯が通って強さを感じる北原、そして石原や轟、山根、千田、川地民夫あたりまで、それぞれ「ニン」がぴったりという映画だった。そうそう、石原の兄小高に騙されたファッションモデルの渡辺美佐子はハッとする美しさ。また姉貴分の彼女に命じられて小高と間違って石原を拉致してきてしまった子分役に小沢昭一も出演している。
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