ひろいよみ劉生日記(1)

摘録劉生日記

  • 大正10年10月15日条

昨夜おそかったので今日は九時半におきる。床の中で新聞みたら『読売』に加藤だろうと思う男が余が如才なくなったとかいや味な事をかいていたのでいやな気持がした。しかし、結局他人に何と思われても自分は自分の仕事を世界にのこせばこれ以上の誇はない。人から感謝こそされ憎まれたりいやと思われたりする事は決してない自信があるから一時的な不快ですんでしまう。ヤクザな奴はヤクザなのだ。十時頃写生に行く。いい処がみつからず椿へ寄り、一緒にまた写生に出たが椿と別れ、去年春描いた石垣と土手に小松のある処へ行き仝じような図でかく。松にちょっと日本画の味をみる。一時頃帰宅、麗子も帰って来たので、二時すぎから麗子の肖像にかかり四時頃この画を終に仕上げる。椿夫婦来る。仕事おえて夕方椿へまた蓁も行き、久しぶりで椿と角力とる。
昨日書いたように、現在東京国立近代美術館で開催中の「所蔵作品展」で岸田劉生の特集展示がなされている。そこに同館所蔵の日記原本も展示されていたのを、ケースに目を近づけとっくりと眺めてきた。興に乗ったので帰宅後さっそく書棚から『摘録 劉生日記』*1酒井忠康編、岩波文庫)を取り出し、あちこち拾い読みする。
美術館で展示されていたのは大正11年3月26日の箇所で、これはちょうど上記岩波文庫版の口絵としてカラー写真が掲載されている。劉生日記のなかでも有名な部分だったのだ。笑う麗子像のラフスケッチが文章を書くスペースの上部に設けられた横長の区画のなかに描かれている。
また文庫版では翻刻掲載されていないが、この日麗子が劉生に差し出した自家製新聞が日記に貼付されており、それも見ることができた(現物は細長の紙片)。娘から手製の新聞をもらった父親は「発明な子だ。女の子で惜しいと蓁(しげる、奥さんの名前―引用者注)もこぼす」と感心している。
劉生日記の特徴は、画家らしく文章のほかにこのようなスケッチが豊富に描かれていることで、上記引用したいまから84年前の10月15日の記事の上部にも、3葉のスケッチが描かれている。
ひとつはこの日仕上がった麗子像、二つ目は椿(劉生に私淑していた洋画家椿貞雄―巻末人名索引参照)と角力をとった図、三つ目は「石垣と土手に小松のある処」の図である。三つ目の構図は、今回特集でも展示されていた「切通之写生」に似ているが、制作年代はあちらのほうが早いようなので、また別物らしい。

いまごろ「二十四の瞳」

二十四の瞳」(1954年、松竹)
監督木下惠介/原作壺井栄高峰秀子月丘夢路/夏川静江/天本英世田村高廣笠智衆浦辺粂子清川虹子浪花千栄子

家で仕事をしながら観ていたせいか、前半あまり気を入れて観ていない。「二十四の瞳」は原作も未読だし、他のバージョンもまったく観ていないので妻に珍しがられてしまった。これが初めてなのだ。
名作の世評が確立している作品だからいまさらという気がしないでもないが、やはり感動的。最後は高峰秀子に感情移入してしまってうるうるしてしまった。小豆島の小学校に赴任してきた高峰秀子と子供たちの物語だとばかり思っていたら、成長した子供たちと高峰のその後(戦後)まで追いかけた大河映画だったとは知らなんだ。
退職して、戦争で夫(天本英世)を失い、また事故で長女を失った高峰は、ふたたび小豆島の分教場に勤める。その教室には、かつての教え子の子供や妹らが生徒でいて、思わず涙。また戦死した教え子の墓前に詣でては涙。子供たちからはさっそく「泣きみそ先生」というあだ名をつけられてしまう。
そのかつての教え子たちは月丘夢路の家でやっている料理屋で謝恩会(歓迎会)を開く。12人の教え子のうち、女子5人男子2人が集まる。男子のうちの一人が、戦争で視力を失った田村高廣田村高廣高峰秀子といえば、同じ木下監督の「笛吹川」では夫婦役ではなかったろうか。また野村芳太郎監督の「張込み」では恋人同士の役だ。
ちょうどこれを観ながら夕刊(朝日)を開いたら、今年喜寿を迎えたという当の田村高廣さんのインタビューが載っていてびっくりした。記事中には、この「二十四の瞳」は出演第二作目だったとある。記事にひととおり目を通したあと、田村さんの登場シーンが。奇しき偶然。これまた「東京奇譚」だ。
高峰さんは、溌剌と若々しい新任教師役から老け役まで、まるで違和感がない。変わりようが見事なので、「二十四の瞳」は全編同じ時期に撮ったんだよなと訝ってしまうほど。これまた老婆にまで扮した「笛吹川」を思い出してしまう。
謝恩会で、かつての教え子たちから自転車を贈られた高峰さんが、床の間に置いてある自転車(!)を見て涙したシーン、わたしも胸が熱くなった。