定刻発車の思想

定刻発車

JR福知山線での脱線事故の報を聞いて、関西に住んで身近に感じるということではないものの、同じように大都会の電車を日常利用する者として、他人事ではないと大きなショックを受けた。以前日比谷線事故のときも同じように他人事ではないと感じたはずだが、記憶がすっかり薄れかかっていた。
さらに驚いたのは、事故のあった日、新潮文庫の新刊として出た、三戸祐子定刻発車―日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか?』*1という本を偶然買い求めていたからだ。迂闊にも、事故のことを、帰宅したとき郵便受けから取り出した夕刊を見て初めて知った。だから同書を購入したときにはまったく知らなかったのである。
本書は、日本の鉄道が定刻発車を驚異的に維持している原因を、ソフト面ハード面両面から探り、また鉄道経営の内部に深くメスを入れつつ、それを支えている日本人の思想的背景を歴史的にたどりながら解明してゆくという知的刺激に満ちた本だ。
意外な切り口から日本文化の特質をえぐりだすといった、この手の本にわたしは弱い。だから購入したわけだが、その当日、同書の核心的テーマと深くつながる大事故が起こるとは、夢にも思わなかった。
著者三戸さんは、五分ほど遅れた山手線電車に遭遇し、五分遅れただけで苛立ってしまう自分に気づき、そのよって立つ考え方を遡っていった結果、本書の構想が生まれたという。そもそも遅れに苛立つというのは、電車が遅れないという事実を前提にしている。では、なぜ日本の電車は遅れないのか…といった筋道である。
時間を守る、定刻にこだわるという日本人の文化的特質の歴史的理由として、五つの点が指摘されている。江戸時代以来の寺の鐘による時報システム、参勤交代という「大規模移動プロジェクト」への慣れ、参勤交代や伊勢参りなど旅慣れした江戸時代の人びと以来、交通のメリットをよく知っていたこと、日本の都市が人が歩ける間隔で鈴なりに発生していること、戦国時代以来鍛え上げられてきた土木技術の質の高さ、である。
このうちわたしは、第四点目、鈴なり都市の指摘に唸らされた。それをさらに遡ると奈良・平安時代の駅馬・伝馬制度に行きつくというダイナミックな立論もさることながら、次のような論理の筋道に納得した。
江戸時代には、徒歩で移動するため、一定の距離をおいて街道に宿場を設けた。現代の都市はこの宿場がもとになって発展したものであり、街道沿いに短距離間隔で鈴なりに発生している。近代になってそんな短距離間隔の都市間に電車を走らせたとき、頻繁運転が求められ(都市間が短距離なので、間延びした間隔では意味がない)、その結果、秒単位の運行管理が必要となったというものである。
本書を読んで強く感じたのは、鉄道、とりわけ大都市部のそれにおいては、乗客ですら「鉄道運行システム」のなかに取り込まれているということだ。ホームの歩き方、並び方、電車の降り方と乗り方などなど、ことごとく管理され、ラッシュ時にはとくに規律を乱さぬふるまいが求められる。わたしたち乗客も、毎日乗降の繰り返しでそうしたルールを刷り込まれ、当然視してしまう。ルールを守らぬ乗客に対し、マナー違反だと厳しい目を向ける。
この考え方と鉄道会社の利益優先の方針が、今度の事故の被害者遺族がJR西日本に対して憤る「対応のまずさ」につながるような気がする。とはいえ本書を読むと、もはや当たり前のように考えられてしまっている「定刻発車」の思想を支えるために払われている努力・犠牲にも、敬意を表わさずにはいられなくなる。
いまマナー違反ということに触れたが、三戸さんは、この発想そのものを変えなければ、日本の鉄道の定刻発車という「文化」を変えることができないと主張する。電車のなかで大声で話をしたり、足を前に投げ出したり、化粧をしたり、そうした行為をマナー違反として白眼視する考え方は、鉄道で過す時間を「公的な時間」だとみなす考え方に由来する。上記の行為はすなわち公共のマナーに反するわけだ。
三戸さんの議論は、こうしたマナー違反行為をやめようという方向ではなく、鉄道空間の公共スペース性をできるだけ減らし、プライベート空間として利用できるように作り替える必要があるという論理である。
たしかに自分の経験に照らせば、電車で一心に好きな本を読んでいるというとき、他人のことはあまり気にならず、電車が遅れても、本をたっぷり読む時間が増えてひそかに嬉しいと思うこともある。いわば擬似的なプライベート空間を自分のまわりに設定していることになる。むろん時と場合によるわけで、すし詰めだったり、立ちどおしだったりすればなかなかそうした気持ちにはならないことは、付け加えておかねばならない。
三戸さんは、将来における鉄道は、わたしが感じるような擬似的空間をシステム的・社会的に保証してくれるような、つまり、ハード面(設備)、ソフト面(乗客各自の意識改革)両面において、プライベート空間の増加をしなければならないというのである。
脱線事故のあと、これまで自分が直面したことのない電車のトラブルに二日続けて遭遇した。出張前日、出張に携えてゆく重い荷物を抱えながら、帰途につくため地下鉄を待っていたら、軌道から発煙があったというトラブルで、いつ次の電車が来るかわからない状況に出くわした。構内の情報テロップを見ると、他の路線への振替輸送の案内が出ており、事態は深刻かと憂鬱になった。
もっともこのときは、にもかかわらずホームに人があふれているわけでもなし、他の客は悠然と次の電車を待っているから、たぶん遅れはしても動いているのだろうと判断し、実際そのとおりだった。重い荷物を手に持って混雑した車内に乗り込むという不都合はあったものの、無事帰宅できたのである。
さらに翌日の出張当日、秋田新幹線こまちに乗っていたところ、乗換駅たる大曲のひとつ手前、角館で停車したまま、なかなか発車しない。アナウンスがないので不安になっていると、次の区間で信号故障があって、復旧までしばらくかかるという知らせがあった。結局大曲には30分ほど遅れて到着。
この場合、大曲で別の路線に乗り換えねばならず、大都市とは違い、その路線は便の間隔が短いわけでもない。今回は余裕を持って横手に入り、時間前にゆっくりブックオフに行くことができるような予定を立てていたのだけれど、結局いつものように慌てて棚を一覧する始末に。逆に言えば、余裕をみていたおかげで肝腎の会議に遅れず済んだわけだが。
今回私が遭遇したものは、いずれも大事故というわけでなく、日常生活、ひいては自分の人生を狂わせるようなトラブルではなかったけれども、立て続けにいままで遭遇したことがなかった電車の遅れというトラブルに見舞われたことは事実だ。脱線事故が引き金となって、いろいろなところに衝撃をもたらし、事故として発現してしまったのかもしれない。飛行機事故ではないが、つづくときはつづくものである。

海野弘、大誘拐、夕刊フジ本、ハイスミス

ということで『大誘拐』の原作探し。たしか創元推理文庫版があったはずと、職場近くの大学堂書店に行ってみると、こういうときに限ってなくなってしまっている。残念。かわりに次の2冊。

小沢昭一『雑談にっぽん色里誌 芸人編』(ちくま文庫
カバー・帯、350円。新刊のとき買い漏らしていた。ISBN:4480039066
海野弘『リヨンの夜』(河出書房新社
カバー・帯、800円。帯に「都市の冒険者海野弘初の短編小説集」とある。海野さんには時代小説があることは知っているが、こういう現代物短篇小説の存在は知らなんだ。収録作品は「自動販売機の迷路」「ペーパー・シティを焼く」「ロサンジェルス・ウォーキング」「リヨンの夜」の4篇。ISBN:4309007201

やはり『大誘拐』を買い逃したのは悔しいので、帰り道、綾瀬で途中下車。無事入手することができた。

天藤真大誘拐』(創元推理文庫
カバー、420円。映画とどう違うのか、楽しみ楽しみ。ISBN:4488408095
★中町信『模倣の殺意』(創元推理文庫
カバー、360円。ちょうど新刊で『天啓の殺意』が刊行され、購入したばかりだった。たしか南陀楼綾繁さん(id:kawasusu)が『模倣の殺意』を高く評価されていたはずで、気になっていた。ISBN:4488449018
★P・ハイスミスヴェネツィアで消えた男』(扶桑社ミステリー)
カバー、280円。先日読んだ小林信彦さんの『読書中毒』では、「発端の設定にまずうなった」というところから最後まで褒めどおしの作品だった(「なにはなくとも、ハイスミス」)。ISBN:4594021956
阿刀田高左巻きの時計』(新潮文庫
カバー、220円。夕刊フジ連載エッセイ本。阿刀田さんも絶対夕刊フジに書いているはずと目をつけていたが、ようやく突きとめた。嬉しい。イラスト担当は久里洋二さん。ISBN:4101255075