第98 『少年』の土地

最近自分に似つかわしくない日々がつづいていた。年が明けてもこの状態から解放されそうにない。そのなかで今日はようやくゆっくりと休みがとれそうだったので、「芸術の日」と洒落こむことにする。
まずは映画。シアター・イメージフォーラムでロードショー中の「倫敦から来た男」である。先日渋谷にある大学の非常勤講師で出向いたとき、前売り券を買っておいたので、どうしても年内に行かなければならなかった。映画を観に行くという気力が失せつつあるこの頃、そうでもしないとなかなか重い腰があがらない。
表参道に向かうため地下鉄に乗っていたら、珍しく二重橋前駅で人が降りる。前に座っていた年輩男性三人組。そうか、今日はそういう日だったか。二重橋前駅が賑わう年に数回のうちの一日。
表参道から青山通りを渋谷方面に、青山学院を過ぎてしばらく歩くと映画館はある。休日の朝イチだというのに、意外に人が多い。初めての映画館なので勝手がわからない。入場時間が来て、整理券順だったことを知る。まあそれでも見やすい席を確保できた。全108席の小さな、しかし落ち着いた座り心地のいい座席。
さて映画はモノクロフィルム、ノワールな雰囲気と緊張感に満ちた作品だった。ジョルジュ・シムノンの原作は10月の購入直後読んでいたが、その後新型インフルエンザに罹ってしまった。不思議なもので、同じ人間なのに、病前病後の自分のあいだに断絶感のようなものを感じて、ずいぶん昔のことのように思えてしまう。
長回しで、執拗に一人の人間の動きを追いかけるカメラワーク。短いカットでつなぐテンポのいい映画を見慣れてしまったゆえか、こうした長回しの映画が新鮮に感じる。原作の舞台となる港町の雰囲気や、いかにも狷介そうな主人公マロワンの人となりがうまく表現されている反面、大胆に筋をカットしているところもある。
大きな違いはラスト。「ええっ! こんな終わり方だっけ?」と茫然とする。インフルエンザのせいで読んだ内容を忘れてしまったのだろう。いやはやたった数ヶ月前なのにおめでたいと思っていたけれど、帰宅して原作を読み返してみたら、たしかに違う。ラストなのだから、大きな改変だ。さてどちらがいいか。けっこう映画の終わり方のほうが考えさせられるところがあって味わい深い。
重苦しい気分を背負いながら映画館を出ようとすると、次の回を待つ人たちが群れをつくっている。時間的に頃合いだからではあるが、わたしが観た回より断然人が多い。こんなに人気のある(期待される)映画だったのか。洋画の新作を観たのは久しぶりなので、すっかり時代の流れに取り残された思いを抱いた。
青山通りから宮益坂を下り、雑踏の渋谷中心部を通り抜けて目指すは、松濤美術館。先日書友たちと忘年会を開いたとき、ここで村山槐多展をやっていることを教えていただいたのである。
それにしてもクリスマス前の渋谷はたいへんな人出であった。よくテレビにも映る渋谷の交差点を渡り、109の前から東急百貨店・Bunkamuraに抜ける道は大混雑。渋谷の町は自分好みではないのだが、こういう大混雑を抜けている自分の気持ちが高揚してきたことも正直に告白する。今日は気持ちに余裕があった。
松濤美術館での村山槐多展、没後90年を記念してのものだという。それにしても、このような大規模な槐多の回顧展に出会えるとは思ってもいなかった。そんなメジャーな画家だとは考えすらしていなかったからだ。よくあるように、江戸川乱歩経由で槐多の絵(乱歩偏愛の「二少年図」)と出会い、ミステリ・怪奇小説好きという方向からは、怪奇小説作家としての槐多も知っている。学生の頃は一冊本の『村山槐多全集』まで持っていた。いまあの本はどこにあるのだろう。もう処分してしまったかしらん。
ガランスの赤に迫力がある油絵や、さまざまな自画像に見入る。掛け軸のかたちで軸装された珍しい縦長日本画風の絵もある。茶と黒が支配的な1916年の「自画像」がいい。ただ、一点だけ家に飾っていいというのであれば、わたしは岡鹿之助風の風景画「片貝風景」を選ぶだろう。いかにも槐多という特徴的な人物画にくらべれば、槐多の個性はあまり表面に出てきていないようではあるが、言われれば槐多だ、というあたり。
入館料が300円で、上製で見応えのある図録が2000円といういつもながらの安さに感動しながら松濤美術館をあとにする。
ちょうど最近、大岡昇平さんの『少年』を読み終えたばかりだった。前回書いたように、大岡さんは少年時代を渋谷で過ごした。いまのセンター街あたりにあった家の次に移り住んだのが松濤の家だった。持参した『少年』掲載の地図と、現在の地図を重ね合わせてみて驚く。ちょうど大岡家のあった場所が、松濤美術館のある一角だったからだ。このあたり、数年前に来たときには、ずいぶん昔の家が荒れ放題のまま放置されていたものだったが、いまや崖を削って道路を広げようとしており、道路沿いにはマンションが建ち並んでいる。
大岡さんの地図にもたよりながら、一路東大駒場キャンパスを目指す。山手通りというのは、もともと三田用水が通っていた上に作られたことを知る。駒場キャンパス東端に、本郷の三四郎池ならぬ愛称「一二郎池」というのがあるらしいことは知っていたが、今回初めて訪れた。この池も、かつての三田用水の名残なのだという。池畔では黒白の猫が優雅にひなたぼっこをしている。

駒場キャンパスは三、四度訪れたことはあるが、これほどゆっくり構内を歩いたのは今日が初めてだ。本郷キャンパスも都会の真ん中にありながら、そうであることを忘れさせてくれる空間なのだが、駒場の場合は野趣が感じられてさらに素晴らしい。こういう空間で勉強できる東大生はしあわせである。
駒場キャンパスを抜けて代々木上原まで歩いて帰途についた。この駅、そしてその周辺も何度か歩いたことがあるが、今回あらためて思ったこと。「上原という場所は高級住宅地である」。田舎者と笑わば笑え。松濤はもちろん言うまでもない高級住宅地だが、駒場を挟んで西にある上原もそれに劣らない落ち着いた豪邸ばかり。コートジボワール大使館まであった。いつも思うのは、こんなところに住んでみたい…。
帰宅後、買ってあったはずと、酒井忠康『槐多の歌へる 村山槐多詩文集』講談社文芸文庫)を積ん読の山のなかから探したところ、無事見つかった。残りの人生で読まないだろう本は買わないと宣言したはずだが、この本のように、今日のようなきっかけでめくってみたくなる本も決してなくなりはしない。そういう出会いのために、いま読むかわからないけどとりあえず買っておく、というのも、やはり無駄ではないのだ。
村山槐多展でたくさんの絵を観て、また要所要所に展示されていた槐多の詩句に動かされ、家に帰ってくると槐多の文業を味わうことのできる文庫本が待っている。このためだけでも、定価の1400円のもとはとったと思うのだが、同志はいないだろうか。
倫敦から来た男--【シムノン本格小説選】槐多の歌へる 村山槐多詩文集 (講談社文芸文庫)