奈良に流れる時間

「月は上りぬ」(1955年、日活)
監督・出演田中絹代/脚本小津安二郎斎藤良輔/美術木村威夫安井昌二北原三枝笠智衆杉葉子/山根寿子/佐野周二三島耕小田切みき/汐見洋

“日本映画データベース”によれば、田中絹代監督作品は6作あるらしい。監督第一作「恋文」は以前観たが、なかなか良かった(→2006/11/28条)。「月は上りぬ」は第二作。かねがね観たいと思っていた作品で、上映機会がないわけではなかったのだが、なかなか予定とあわず涙をのんでいた。ようやく今回観ることがかなった。
もう今年も半分が過ぎてしまった。年が変わるといつも楽しみにしているのが、フィルムセンターにおける当年の上映企画のラインナップ。そこで知ったのは、今年田中絹代生誕100年ということ。田中絹代松本清張太宰治が同い年だなんて、面白いではないか。秋に田中絹代特集があるので、観に行かねばと思う。
週末の神保町シアターは、平日夜に増して平均年齢が高いようだ。今回の「月は上りぬ」は11時上映開始、10時からチケット発売開始なので、その時間に合わせて神保町に向かったところ、すでにチケット購入を待つ行列ができあがっており愕然とした。わたしが購入したチケットの整理番号は25番だった。
「月は上りぬ」を観たいと思ったきっかけは、川本三郎さんの『日本映画を歩く―ロケ地を訪ねて』(中公文庫)だった。このなかの「「月は上りぬ」のまほろばの大和」にて取り上げられていたのである。
主演の安井昌二三國連太郎のように、安井昌二は映画中の役名をそのまま芸名にしたのだという)は職を失って、当面翻訳などをして口に糊しているインテリ。彼が寄寓しているのが、川本さんによれは東大寺の院家龍松院(りゅうしょういん)なのだという。
龍松院といえば、最近わたしはここに伝わっている東大寺関係の記録を使って研究論文を書いたこともあり、一気に惹きつけられたのである。川本さんが触れられている龍松院住持の長老は、まさにその記録のご所蔵者なのだった。いつか調査などで訪れる日がきたらいいなあ。
古都奈良は、埃立った東京のような都会と違い、のんびりゆっくりと時間が流れていると出演者に言わしめている。幼いころ麹町に住んでおり、東京への憧れを抱きつづける三女北原三枝が、奈良ののんびり加減に業を煮やして言う台詞である。
何かの先生をしている(していた?)らしい笠智衆と、その三人娘山根寿子(戦争未亡人)・杉葉子北原三枝を中心とした家族が織りなす物語。前半は、活発な北原三枝が、次姉杉葉子と、安井昌二の友人で、関西に仕事でやってきた通信技師三島耕を結びつけようとあれこれ奔走する筋書き。なかなか距離が縮まらない二人の様子に苛立ってなにかと世話を焼こうと焦りまわる北原三枝が可愛らしい。
結局二人は北原の画策もあって、十五夜の晩のあいびきをきっかけに結ばれるのだが、恋仲の二人が彼らだけに通じる暗号を用いて恋情をとり交わすシークエンスが素晴らしい。三島から電報で「3755」という数字だけ受けとった杉葉子は、返事に「666」とだけ打ちかえす。3755と666という謎の数字をめぐって、北原三枝や彼女のまわりの人びとが推理を繰りひろげる。答えは万葉集の番号だったという素敵に文学的で理知的な謎解きに、ミステリファンとしての心が疼く。
監督田中絹代は遠慮深げに一家の女中「米や」の役で出演。とはいえ、北原の使い走りとして振りまわされる場面はこの作品のなかでもっとも笑いを誘われるところである。「流れる」といい、昭和30年代に入ってからの田中絹代はこういう女中役が実にぴたりとはまる。この家にはもう一人、年若き女中がいて、小田切みきが演じている。この女優さんもこういう役柄がなぜかよく似合う。
石原裕次郎北原三枝の黄金コンビが誕生した「狂った果実」はこの一年数ヶ月後。そこに至る以前の日活女優北原三枝がけっこう好きなのである。たとえば市川崑監督の「青春怪談」。スタイルが抜群によく、しかもあの美貌。「月は上りぬ」などを観ると、コメディエンヌとしての素質も十分。そんな路線の作品ももっと観てみたかった。
日本映画を歩く―ロケ地を訪ねて (中公文庫)