哀しきマレビト

「獣人雪男」(1956年、東宝
監督本多猪四郎/原作香山滋/脚本村田武雄/音楽佐藤勝/特殊技術円谷英二宝田明河内桃子/根岸明美中村伸郎/小杉義男/高堂国典/堺左千夫/笠原健司

妻の買物につきあって神保町のスポーツ用品店に出かける。用事を終えると、妻・次男組はそのまま帰宅、わたし・長男組は都営新宿線から京王線に入って一路調布へ。
テアトルタイムズスクエアシネセゾン渋谷などと同系列の映画館*1であるキネカ大森とパルコ調布キネマ二館で円谷英二特集があることを知った。わたしはウルトラマンシリーズで育った世代に属するものの、とくに円谷特撮ファンというわけではない。
にもかかわらず食指をそそられたのは、同サイトにある「スクリーンでしか観る事の出来ない問題作『獣人雪男』上映を機に」円谷英二が特撮技術を手がけた特撮映画を特集するという企画趣旨による。
「スクリーンでしか観る事の出来ない問題作」というのは、何らかの理由により再放送やソフト化が不可能だという意味だろう。こういう惹句にすこぶる弱い。「今のうちに観ておかねば」という、根拠のない焦燥感を抱いてしまうのだ。
ネットで調べてみると、くだんの映画「獣人雪男」は、差別的表現がネックでソフト化不可能らしい。そうしたレアさゆえに、特撮ファンのマニアックな関心を呼び、良質な画像とは言えない海賊版が出回っているのは皮肉である。それをご覧になった方が感想を書いているサイトもあった。
こうなると、わたしの心の奥底にかすかに残っていたマニアックでカルト好きの性格に火がついた。キネカ大森のほうは日程が合わなかったので、わざわざ調布まで観に行くことに決めたのである。長男を誘ったら「行く!」というので連れて行った次第。長男は以前、CSで放送された東宝特撮映画「電送人間」(これも円谷さんが特技監督として参加)を観て(→4/15条)愉しんでいたくらいだから、現在のようなCGを駆使した迫力満点のエンタテインメント映画だけでなく、こうしたモノクロの、昭和の匂いが充満したスリラーも充分守備範囲なのだ。
調布という町を訪れるのは初めて。先日訪れた立川があまりに大都会だったため、それより都心に近い調布もまた同じかそれ以上の都会という想像をしていたのだが、あにはからんや京王線調布駅はひと昔前の古い(だからこそいまでは貴重な)駅舎で*2、駅前もお洒落な高層ビルが立ち並ぶという雰囲気ではない。昔からあった街道沿いの繁華街と私鉄沿線駅としての開発が中途半端に混じり合っているという奇妙な、それゆえに何か惹かれる雰囲気を持った町だった。
パルコ調布キネマは、名前のとおり駅前のパルコの中にある。「デパートの中にある映画館」という感じ。わたしが育った田舎町にもあった、日曜日に親と映画を観た記憶が呼びさまされるような、そんな雰囲気の映画館で、次の週末からは「崖の上のポニョ」が始まるごく普通の映画館だ。でもそういうところで不定期ながらこのような名画座的企画を組んでくれるのは、シネマアートン下北沢という名画座をまたひとつ失ったいま、とてもありがたい。
本多猪四郎監督・円谷英二特撮監督のコンビは、前年の1954年に「ゴジラ」を製作している。「獣人雪男」はそのコンビが組んだ「ゴジラ」の次作となる。この間小田基義監督によりゴジラ二作目「ゴジラの逆襲」が製作されている。
今ひとたびの戦後日本映画 (岩波現代文庫)ゴジラ」については、川本三郎さんの『今ひとたびの戦後日本映画』(岩波現代文庫)を思い浮かべる。川本さんは「ゴジラ」を、戦争未亡人や復員引揚者を登場させた映画と同様、敗戦直後の日本社会が持っていた戦争の影を引きずった作品として俎上にのせる。新鮮な視点だ。
ゴジラ」を論じた一篇「ゴジラはなぜ「暗い」のか」のなかで、まず「『ゴジラ』は暗い」と書いた川本さんは、その理由を、ゴジラは怪獣映画というより戦争映画であり、昭和29年という戦後状況を抜きにして語れないからだと指摘する。
その上でゴジラという怪獣を、「海から突然あらわれた訪問者である。異界からやって来たマレビトである」「水爆実験の被害者である。核によって奇形化したフリークである」「人間の世界を破壊しつくす加害者であると同時に、人間の科学によって生命をおびやかされた被害者であるという二重性を帯びている」と規定する。
「獣人雪男」を観ると、「主人公」の雪男は、川本さんの指摘する「二重性」という点でゴジラと共通する「哀しいマレビト」として設定されていることに気づく。怖いというよりも、可哀想なのである。人間のエゴイズムに追いつめられ、自分のほか唯一生き残った*3子供(子供の雪男が出てきたときには思わず吹き出した)がいかにも極悪非道の興行師小杉義男によって銃殺されたことに逆上した雪男が、山奥の村落を襲い、めちゃくちゃにする。その村落ではむしろ、雪男に食料を供えて「山の主」と崇めていたのだが、逆上した彼にとっては、小杉義男と同じ人間の集団に過ぎなかった。
雪男は人間を襲う恐怖の存在と見えて、本当のところ危害を加えないかぎり人間にも優しい存在だったのである。このあたりの意外性を映画はうまく見せている(それゆえあまりここて種明しをすべきではないのかもしれない)。それが人間を襲う加害者になったのは、彼らを生捕りして見せ物(小杉義男は子供雪男を調教して玉乗りをさせようと目論む)にして儲けようという人間のエゴイズムによって生命を脅かされた被害者になったからだ。
封印作品の謎―ウルトラセブンからブラック・ジャックまで (だいわ文庫)ところでこの作品の何が問題なのか。この種の作品が「封印」されるメカニズムを追究した安藤健二さんの『封印作品の謎』(だいわ文庫)では、この作品に一章が割かれているわけではないけれども、巻末の「現在では視聴困難になっている著名な作品のリスト」に挙げられている。それによれば、「雪男が出没する集落の住民の多くに身体欠損の描写があるためとも言われている」とある。
「言われている」とあるように、東宝側の公式な説明というわけではないらしい。映画を観てみると、たしかに、雪男によって襲われる山奥の集落は、長い白髯をたらした高堂国典を長老とし、人間か動物かわからないような白骨をいくつか棒に突き刺して並べ、それらをご神体に見立ててぬかずきお祈りを捧げるような原始的村落のようで、顔や手足に何らかの障害のある住民が登場する。
もちろんそのような障害を持った人々を原始的村落の一員として登場させることに差別表現を助長する要因があるかもしれないが、いくら昭和30年に作られた映画だとは言っても、日本の山奥にそんな「下界から隔絶された集落」が存在すると本気で信じられた時代ではなかろう。設定はSFなのである。
その集落のなかで、失踪した仲間を懸命に探す山岳部(顧問格の教授が中村伸郎)の学生宝田明にひそかな愛情を寄せたため長老高堂国典から強く叱責される女性を演じた根岸明美の存在がきらりと光る。この映画での根岸さんはエキゾチックな魅力をふりまき、とびきり印象的だ。
でもやはり観終えたあとに心に残るのは、人間に追いつめられた雪男親子の悲劇的結末なのだった。こんなに人間的で、ゴジラ同様文明批判が込められたこの作品、「封印」しておくのはもったいない。

*1:東京テアトル株式会社

*2:もっとも現在高架工事中だったから、近いうちに新しくなるのだろう。

*3:あとで山奥の洞窟に暮らしていた「雪男族」は、毒茸を食べて絶滅寸前に追い込まれたことが解き明かされる。