じわじわくる面白さ

「月給13,000円」(1958年、松竹大船)
監督野村芳太郎/脚本野村芳太郎山田洋次/南原伸二/田村高廣/杉田弘子/宮口精二渡辺文雄/三井弘次/西村晃/北竜二/織田政雄/小川虎之助/渡辺篤石浜朗内田良平朝丘雪路/小坂一也/小田切みき/関千恵子/三好栄子/中川弘子/中村是好/川口のぶ

山田洋次監督の脚本第一回作品だという。日本橋辺のビル(「東京会館ビル」とある)にオフィスがあるとおぼしい「大洋ゴム」という会社が舞台。強引に筋をまとめれば、九州支社から東京本社に転勤してきた性格がまっすぐな九州男児(南原伸二)が、社内の人事をめぐる人間関係や、社員寮での仲間との交流、同僚女性社員への恋などを経験し、最後には入社試験に絡んだ採用人事のゴタゴタに巻き込まれ、わずか一ヶ月で北海道の支社に転勤させられ、淋しく去ってゆくというもの。
主人公南原伸二を中心に見れば、裏返しの「坊っちゃん」のようなストーリーであり、南原の曲がったことや嘘が嫌いな一本気の性格が気持ちいい。ここに社内のさまざまな人びとが絡み、それぞれの人物の存在感がしっかりしていることで、単純なストーリーに味わいのある群像劇の複雑さが加わっている。
南原の上司となるうだつのあがらない万年人事課長が宮口精二。総務部長北竜二と経理課長西村晃が不正取引で失脚し、連座して出世主義の渡辺文雄も転勤させられる*1。次期部長と目されていた西村晃が失脚したため、いよいよ万年課長宮口の出番かと部下(南原・田村・三井)たちが課長宅に押しかけ気勢を上げるが、結局後任は秘書課長の織田政雄がすわる。
出演者で光っていたのは、この宮口精二のほか、かつては宮口と飲み歩いていた仲だったらしいが飲んべえのため出世が遅れた人事課の老独身平社員三井弘次だ。呑みっぷり(コップ酒の飲み方が見事!)と悪酔いしての絡み方、喫茶店のウェイトレス小田切みきに求婚するときのはにかみ様に至るまで、会社の出世コースを外れてしまったアウトロー社員のすねた雰囲気が絶妙だった。その三井ら社員仲間がよく立ち寄る焼鳥屋の「社長」渡辺篤も渋い。南原が入る社員寮の管理人のおばさん三好栄子もいい。「坊っちゃん」を見守る清のように、人のいい南原をあたたかく見守る。
この映画では完全な脇役である厚生課員小坂一也が唄う主題歌侘びしくも歯切れいいメロディにあるように、この会社の平社員たちは13,000円という薄給で恋もできず汲々としている。内田良平とエレベーターガール(会社にいるとは!)朝丘雪路カップルはお金を貯め二人で新しい部屋を借りようとするが、お金が足りず苦しんでいる。
この映画のヒロイン杉田弘子は実家の雑貨屋(南原が越中ふんどしを買いに来る。父親が中村是好)での生活が苦しく、給料の前借りを経理課長に頼むが断わられてしまい、恋人の田村高廣から1万円を借りようとする。
将来はやれ課長だそれ部長だという出世の夢を見て、平社員の薄給に苦しみながら暮らす昭和30年代のサラリーマンたち。給料の前借りや、給料日には課ごとに課員の給料袋を経理課に受け取りにくる風景、出入口ではたまったツケを払ってもらうため集まってくる人びとなど、この時代ならではの光景なのだろう。わたしが子供の頃(昭和40年代)は、まだ「夢は課長や部長」「現金で給料を受け取る」「給料日は帰りに酒を呑む」などというサラリーマン習俗が残っていたように思う。
映画に映った東京の町並みが素晴らしい。雨に濡れた日本橋(当然日本橋川の上に首都高は存在しない)を俯瞰するショット。雨の匂いがただよってくるような画面。得意先を歌舞伎座に招待しての観劇会で、歌舞伎座入口で来客に弁当を手渡す南原と杉田の二人の向うには、森永製菓の地球儀型広告塔がそびえる不二越ビルが見える(川本三郎『銀幕の東京』129頁)。
田村高廣と杉田弘子が結婚問題について重苦しく語らうのは常盤橋公園だろう。江戸城見附の石垣や、都内に現存する唯一の洋式石造アーチ橋(明治10年建築)だという常盤橋のゆるやかなスロープ。日本橋川の対岸には、それに面して重厚な石造建築がそびえる。
右端の建物には「東京銀行」の看板が掲げられている。左側に威容を見せているのは日本銀行本店である。調べてみると「東京銀行」の看板の建物は、辰野金吾の弟子長野宇平治によって設計され昭和2年にできた旧横浜正金銀行東京支店の建物であることがわかった*2「日本人のなかでは古典様式に精通していた長野の代表作」だという(松葉一清『帝都復興せり!』朝日文庫*3)。
のち横浜正金銀行東京銀行となり、現在は三菱東京UFJ銀行である。現在この建物はすでになく、敷地の一部には日銀貨幣博物館が建ち、そのまま三菱東京UFJ銀行などの社屋が存在している。側壁を見せる日銀本店の建物も、辰野金吾による明治の本館ではなく、長野の設計により増築された部分にあたる。つまりこの映画は、日銀から東京銀行にかけて長野の作品を堪能できるアングルになっているわけである。
群像劇の面白さに加え、そんな銀座や日本橋の風景にも見とれてしまった。エンドマークが出たときわれに返ると、テレビを見ていた身体がいつの間にか少しずつテレビに接近して、1メートルも満たない距離で画面の目の前にいることに気づいた。

*1:渡辺文雄は「顔が丸い高橋貞二だなあ」と感じ誰だかわからなかった。

*2:参考:東京の近代建築:建築家別建物インデックス(3)

*3:ISBN:402261188X