気配りするベテラン女優

わたしの台所

杉浦日向子さんの『ごくらくちんみ』*1新潮文庫、→7/5条)につづけて、食べ物について書かれたエッセイ集を読みたいと思った。
ちょうど目についた場所にあったのが、沢村貞子さんの『わたしの台所』*2光文社文庫)である。最近光文社文庫から「〈食〉の名著」と銘打ち、食味エッセイの名著でありながら手に入りにくくなっていた本が復刊されている。これまで吉田健一『酒肴酒』、開高健『最後の晩餐』、色川武大『喰いたい放題』、杉浦明平『カワハギの肝』および本書の5冊が出た(今月も、来月もラインナップにないので、これで打ち止めかもしれない)。
このうち杉浦明平『カワハギの肝』のみ未購入で、吉田・開高・色川の3冊は前の文庫版を持っているにもかかわらず、また購入してしまった。『酒肴酒』の表紙に林哲夫さんの絵が使われていたのを見て、買わずにはいられなくなったのである。他の本の雰囲気も同様にいい。
沢村さんの『わたしの台所』だけ、購入本のうち前の文庫版(朝日文庫)を持っていない。しかも今回初めて沢村さんの本を読んだ(『私の浅草』は持っているけれど未読)。「〈食〉の名著」シリーズ中の一冊だから、当然食をめぐるさまざまなことが書かれてある。日常生活におけるごくふつうの家庭料理の作り方だったり、食に関する思い出、挿話だったり。
しかし本書を読んでいてもっとも印象に刻まれたのは、他人を気づかう気持ちの細やかさだった。ベテラン女優であり、人生経験のうえでも大先輩であるにもかかわらず、「そこまで気を使わなくとも…」と思うほど、目下の若い人々に対しても気を配る。他人を思いやる気持ち、他人の立場になって考えることが沢村さんの行動原理の第一になっているかのようである。
このような気配りは、神経をすり減らしストレスを生じさせずにはおかない芸能界で生きてきた経験が土台にあるようだ。これは一般論なのか、自分の体験に根ざした話なのか、競争社会のなかで他人に負けまいとむやみに張り切るかげで、やすらぎを求め「安心して何でも話せる友だちが欲しい」と切望する。

ある日フト、自分にやさしい人に出逢ったりすると、たちまちのめりこみ、
(この人こそ信頼出来る。もっと親しくなりたい。もっと私を分ってもらいたい……)
とあせるのはそのせいだと思う。
せっかちに、いろんなことを求めすぎるから、ちょっとした感情のゆき違いにつまずいて、まるで奈落の底におとされたような辛い思いをする。(「つかず・はなれず」)
沢村さんは蛇口を開け水を流しっぱなしで作業することに罪悪感を感じる。ある日、テレビ局の手洗所で、若い女優さんらしい人が水を流しっぱなしで化粧直しをしているところに遭遇した。気になってしょうがいなのだが、横から手を出して蛇口を閉めるのも相手に悪い。「手洗所の中でまで、底意地の悪い姑役を演じたくはな」いと考える沢村さんは、「あなた、きれいねえ……若い人って、見ているだけで気持ちがいいわねえ……」と相手を持ち上げるように話しかけ、「アラ、この蛇口こわれているのかしら」と独り言のように小さく言いながら、蛇口を閉めることに成功する。相手の気を悪くしないように、相手と自分の間にしこりを生じさせないように細かく気をつかって行動する。
気配りの極北というべきなのが「紳士協定」という一文だろう。近所の子どもたちが家の前の路地でキャッチボールをしていると、何度も自分の庭にボールが飛び込んできて、門のチャイムを鳴らしてボールを取ってくださいと頼みにくる。何度も何度もチャイムを鳴らされ、その都度丁寧に応対してボールを取ってあげるたび家事が中断されるのに業を煮やした沢村さんは一計を案じ、「紳士協定」を提案する。
キャッチボールを始めるとき声をかけてくれれば、門の鍵をあけておくから、ボールが庭に入ったときは勝手に入って自分たちで取っていい。そのかわり、やめて帰るときに終わったことを怒鳴ってくれ。そう子どもたちに提案し、子どもたちもそれからはきちんと約束を守ったので煩わしさが消えた。
この話には後日談があって、これも爽やかで気持ちがいい。こんなふうに自分より目下の若者であっても、子どもであっても対等の人間として、お互い気持ちよくコミュニケーションしようという知恵が本書には詰まっている。つねに他人のことを考えて行動するというのは、結局自分も傷つかないようにという保身の術にすぎないという考え方もあろうが、そうしたすべを身につけていないと、歩いていくうち自然ズタズタな傷だらけの身体になってしまうのが今の世の中だから、沢村さんの文章に学ぶべき事柄は多い。