二人称の可能性

きみの友だち

重松清さんの連作長篇『きみの友だち』*1(新潮社)を読み終えた。
少し前に出た『その日のまえに*2文藝春秋、→8/15条)が、「王様のブランチ」の松田哲夫さんのコーナーで取り上げられ、(たぶん)絶賛されたのをきっかけに売れ出し、大重刷されたというのは、新聞広告や書店のポップ、重版の帯などで知った。重松ファンでもあり、実際面白く読んだから、この売れ方は喜ばしい反面、天の邪鬼ゆえの戸惑いも生じた。「そんなに絶賛され、ベストセラーになるほどか?」と。
個人的には『ビタミンF』や『流星ワゴン』のほうが好きだし、今回読んだ『きみの友だち』のほうが本としてのまとまりはいいのではないかとも思う。先日の「王様のブランチ」でまたもや松田さんは『きみの友だち』を絶賛されていたので、これもまた売れるのだろうな。
かく言うわたしだって、この番組のメンバーである松田さんや関根さん、寺脇さんがこぞって重松作品を褒め上げていたのを知ったことが、重松作品にのめり込むきっかけのひとつとなったのだから、その驥尾に付して重松作品の良さを布教しつづけていればいいのだが、そろそろ少し距離を置いて読んでみようか、そんな気持ちにならないわけでもない。
というわけで、ちょっぴりクールな気分で読んだ『きみの友だち』だが、やはり傑作だというほかないのだ。先日の「王様のブランチ」では、重松さんご本人の仕事場にカメラが入り、直接取材を受けていたが、そこで重松さんは本作品について、「はじめて娘に読ませたいと思った本です」と語っておられた。
主人公は、小学生のとき交通事故で左足が不自由になり、松葉杖の助けを借りなければ歩けなくなった女の子恵美。交通事故に遭う以前はふつうにまわりの友達と仲良くしていたのだが、事故を友達らのせいにしたことで一斉に反撥を買い、以来仲間はずれにされ、心を閉ざしてしまう。
この作品は全10篇の短篇により成っており、それぞれの主人公は異なる。スタイルも、ひとつひとつが外部にいる作者によって「きみ」という呼びかけで語られる二人称で、これまでの重松作品にはない新しい試みだ。各篇は、恵美の世代の友人たちを主人公にした物語と、恵美の年の離れた弟ブンちゃんの世代を主人公にした物語ふたつに分かれ、それぞれが交互に配される。ブンちゃんの世代の物語を読んでいると、恵美のその後をちらちらとうかがうことができるという憎い構成である。
これらの短篇を読むと、子どもの世界も大人の世界に変わらぬ、ともすれば大人の世界以上に残酷で露骨な人間関係の綾で織りなされているという現実をつきつけられ、暗然とする。気づかぬうちにそんな人間関係の加害者となっていたかもしれないわが少年時代を振り返り、苦い思いを抱くのだった。
仲の良い人同士でグループが形成され、グループ間の諍いの結果、仲間はずれとなる人間が出てくる。それでは同じグループに属する人はみんな「友だち」と言っていいのか。そうでなければ、「友だち」とは何なのか。表面的な「友だち」関係によって結ばれたグループにつまはじきにされた子どもは、自分というものを、友だちというものを冷静に見つめる。

きみは「みんな」を信じないし、頼らない。一人ひとりの子は悪くない。でも、その子が「みんな」の中にいるかぎり、きみは笑顔を向けない。(262頁)
繰り返すが、物語の外にいる人間が主人公を「きみ」と呼んで彼らの物語をつむいでゆく二人称のスタイルが、この作品の特徴だろう。重松さんはいろいろなことを考えるなあ、と感心しながら最後の一篇「きみの友だち」にたどりついたら、それは、語り部の一人称で語られる、語り部とそれまでの作品中の人物の「後日談」となっていた。語り部は、重松さんご本人を想像させるライターで実は小説も書いているという人物となっている。
二人称から最後は一人称となって、ハッピーエンドで物語は閉じられる。この転調の妙を評価する人もいるかもしれないが、あえてわたしは、最後の一篇は蛇足ではなかったかと言いたい。あくまで物語の外にいる傍観者として、主人公の子どもたち一人一人に「きみ」と呼びかけながら彼ら彼女らの苦悩を描くだけで、十分この小説の意図は熱く伝わってくるし、そこで物語を閉じて余韻を残すという方法もあったはずだ。
どこかにそんな子どもがいそうな、いまの時代の子どもたちがここで描かれた子どもたちの誰かにあてはまりそうな、そんな「症例報告」のごときリアリティが、最後の一篇の存在でお伽噺のようになる。そうすることが作者の意図であれば、そこを出発点にして、もう一度この作品の意味を考え直さなければなるまい。
二人称が従来ない新たな試みであっても、重松作品としての感動を失わせるものではなかった。だからこそ最後の一篇が、どうしても重松作品から乖離しているような気がしてならないのである。