第57 桜の同潤会赤羽住宅地

同潤会赤羽住宅地

内田青蔵さんの同潤会に学べ―住まいの思想とそのデザイン』*1(王国社、→2/26条)を読み、桜の時期に訪れたいと思っていた場所があった。同潤会が木造分譲住宅事業を展開し、そのなかでも最も大規模であったという赤羽である。同書によれば、昭和3年から翌4年にかけ二期に分けて総計63棟の住宅が建てられ、「あたかも一つの街と呼べるような街区を形成していた」という。
現在、当時の建物と確認できるのがわずか2棟であるものの、同潤会の造った街の名残は今でもはっきりと確認できる」として、その様子が一葉の写真とともに次のように描写されている。訪れたくなったのはこの部分を読んだためだった。

実は、この住宅地に走る格子状の道路には、車道にはみ出して桜の木が植えられている。それらが街路樹としてかつての同潤会の街を色どっているのである。これらの桜の木は、まだ数えたことはないが、一説には五メートル間隔で三六〇本植えられたという。(…)いずれにしても、この桜の存在もあってこの分譲地は良好な環境を維持し、また、その周辺地区も含めて現在でも良好な住宅地として知られているのだ。(155頁)
同書によれば赤羽住宅地がある場所は北区西が丘一丁目(旧王子区稲付西町三丁目)。地図で確認するとJR赤羽駅の西方、先日サッカーのオリンピック・アジア最終予選で注目を浴びたバーレーンカタール戦の行なわれた国立西が丘競技場のすぐ東にある。周囲の町並にくらべ、そこだけたしかに整然と碁盤目状に道路が切られており、異様な感じがする(→地図)。「西が丘」という地名は何に対して「西」なのか。都心から見れば明らかに北東方向にあるから、基準が都心にないことは明らかであって、不思議である。
さて、京浜東北線をJR赤羽駅で下車し、駅西口を出る。これまで赤羽に来たときはいつも東口を出、駅前に広がる商店街のなかにある古本屋数軒、有名なつけ麺の店「麺高はし」を訪れるというのがパターンだったので、西口に出たのは初めてのこと。
西口にあるイトーヨーカドーの建物の一階にさっそく古本屋を発見して興奮した。平岩書店という。店内は大半がアダルト系漫画・ビデオ・写真集に占められ、文学書の棚はわずかしかないが、棚の上方に文学書のセットが積んであるところを見ると、かつては正統な文学書をメインに扱っていた古本屋であることを偲ばせる。店頭本から単行本1冊と文庫本1冊を購入した。1冊100円・3冊200円なので、店のおばさんから「もう1冊選んでいいわよ」と言われ、支払いをすませてからいまいちど店頭棚をチェック、1冊を抜きとる。
そこから「西口共栄商店街」という通りを西南に歩く。イトーヨーカドーによって寂れてしまったという雰囲気のしもた屋が軒を連ねる。古びた古本屋が一軒(斎藤書店)、またその筋向いに今日は休みだったがもう一軒の古本屋。「弁天坂下」というバス停のある三叉路で南(左)に折れる。そこから車一台分の幅の見上げるような急坂となっていて、これが「弁天坂」だろうか。横関英一さんの『江戸の坂 東京の坂』正続(中公文庫)には見えない。
急坂を上りきると高台に住宅地が広がる。少し歩くと東西に走る道路が若干広めで「三岩通り商店街」と名づけられており、この南側が西が丘一丁目である。三岩通りに面する第三岩渕小学校沿いには桜が植えられ、満開とはいえないが五分咲き程度に開花し、周辺の桜並木を予想させる。
小学校から一丁目の碁盤目のなかに適当に足を踏み入れる。すると、車二台に満たない幅員の道路の両側に桜並木が続く一角を発見した。道路は広いとは言えず、したがって歩道はもちろん設けられていない。桜の木は道路に直接植えられている、つまり両側の宅地の塀の外側に続いているのである(冒頭写真参照)。
近所の人だろうか、花開いた桜を見にゆっくりと散歩する中年夫婦が多い。また、おばあちゃんとおぼしき老婦人を見送りに道路に出ている一家(父・母・息子・娘)があり、閑かな住宅地における日曜日の昼下がりの一齣として実に絵になる光景であった。
当時の住宅が現在2棟しか残っていないとわかったのは帰宅後で、歩きながらそれとおぼしき住宅を写真に収める。そのうち一軒からはピアノの音色が聞こえてくる。これまた閑雅な昼下がりの気分にひたる。これから満開に向いつつある桜並木、年数を経た戸建て住宅が並ぶ閑かで成熟した住宅地、歩いていて実に気持ちがいい。
西に向うとごくゆるやかな下り坂で、下りきったところで交叉するバス路線がちょうど山の手の住宅に対する下町の商店街のごとき色分けになっていて面白い。西の突き当たりに西が丘競技場のある運動公園と都立産業技術センターの広大な敷地が広がる。ゆったりと広い道路の両側にはここにも桜並木が続き、木陰の芝生ではテニスを終えた集団が賑やかに花見をしている。桜だけでなく白く花を咲かせる木も満開で、近づくと辛夷の花だった。
また競技場に隣接して国立国語研究所がある。この名前はかの『砂の器』で、今西刑事が被害者の東北弁が実は出雲弁であるという示唆を受けた場所として記憶にあった。帰宅後小説をめくりかえすと研究所は一ツ橋にあったらしい。その後ここ西が丘に移転したのだろう。
研究所から少し西に歩くと旧中山道と並行して南北に伸び、しまいにはY字型に交わる商店街が続く通りにぶつかる。車一台がやっと通れるようなインティメイトな空間である。住所は板橋区清水町。南下して旧中山道とぶつかり、板橋本町まで歩いて今回の散歩を終えた。