第56 荷風の市川

断腸亭日乗

昨日市川市文化会館で「第五回市川の文化人展 永井荷風荷風が生きた市川―」を見、また川本三郎さんの講演を聴き、市川と荷風の結びつきの強さ、市川の人びとの荷風に寄せる暖かなまなざしを知るにつれ、市川という町に親近感をおぼえた。
帰りに立ち寄った二軒の古本屋がいずれも私好みだったということもある。加えて帰りに乗った京成電車の車窓から、市川真間駅近くの線路沿いに古本屋を一軒発見した。一瞬だけ目にしたたたずまいに惹かれ、いずれ再訪しようと決意したのである。
帰宅後断腸亭日乗*1第六巻(岩波書店)を引っぱりだし荷風が市川に越してきた昭和21年の日録を繰ったり、1999年に江戸東京博物館で開催された「永井荷風と東京」展の図録*2を眺めたりしているうち、市川再訪の思いがさらにつのった。川本さんも講演で言及されていたが、越して一週間後の昭和21年1月22日条に以下のような市川印象記を書きつけている。

病院を出で駅前の市場にて惣菜物蜜柑等を購ひ京成線路踏切を越え松林鬱々たる小径を歩む、人家少く閑地多し、林間遙に一帯の丘陵を望む、通行の人なければ樹下の草に坐し鳥語をきゝつゝ独り蜜柑を食ふ、風静にして日の光暖なれば覚えず瞑想に沈みて時の移るを忘る、この小径より数丁垣根道を後に戻れば寓居の門前に至るを得るなり、此地に居を移してより早くも一週日を経たれど駅前に至る道より外未知るところなし、されど門外松林深きあたり閑静頗愛すべき処あり、世を逃れて隠住むには適せし地なるが如し、
最後の一節「世を逃れて隠住むには適せし地」という市川の評価を紹介しながら川本さんは、地元の人にとっては“隠れ住む”はないだろうと場内の笑いを誘っていた。
それから一夜明けた今日もおだやかないい日和で、家に籠もっているのももったいない。昨日の今日ながら、ふたたび市川へと足が向いたのだった。
今日は自転車で京成線お花茶屋駅まで出、そこから京成電車に乗った。青砥・高砂・小岩・江戸川と停車して江戸川を渡る。次の国府台は市川市である。その次が市川真間で、今日はそこで下車した。昨日確認した古本屋を訪れたかったのである。
事前に調べたところでは、真間にはもう一軒古本屋があり、そちらのほうが駅に近い。まずそこから立ち寄る。間口が狭く鰻の寝床のような店内。入口近くには漫画、その奥には文庫本が並ぶ。それだけならば何のことはない普通の古本屋なのだが、ここからが違う。鰻の寝床の突き当たりにさらにドアがあり、その中にまた別の空間が広がっていたのである。
フローリングの床、壁全面が書棚で、その書棚もスチールの味気ないものでなく、まるで澁澤龍彦の書斎に入ったかのようなたたずまいを見せている。そこに文学書がずらりと並び、また人文系各ジャンルの本がびっしりと詰まっていた。市川にこの古本屋あり。かつてデカダン文庫を初めて訪れたときの衝撃を思い出す。
いい古本屋を見つけたという高揚感に包まれて店の外に出た。次に昨日見つけた線路脇の古本屋に行く。こちらは店内こそ狭いが選りぬかれたという印象で質が高く、安い。国文・日本史の専門書が所狭しと並べられている。
こんなところに、というと失礼だが、こういう黒っぽい本を扱った古本屋があるという事実に、“京成線侮りがたし”の感を植え付けられた。
二つの店で購ったのは文庫本一冊に過ぎず、掘出物を得た喜びではないけれども、いい古本屋を見つけたという喜びとそこから生じる気持ちの余裕もあり、一駅先の菅野までゆっくり歩くことにした。
菅野は幸田露伴終焉の地であり、また荷風も一時住んでいた場所である。昨日の講演会で川本さんは、市川は戦災に遭っていないと話されていたが、たしかに古めの木造家屋がちらほら見える。特徴的なのは松がすこぶる多いこと。上に引用した荷風の日録にも「松林鬱々」とあるように、家々の屋根をさらに超えて伸びる松の木が目立つのである。また家々の間の小径が曲がりくねり、歩いていると方向感覚を失わせる。とはいえ線路から多少離れた道を歩み路地に迷い込んでも、踏切の音と電車の音で場所の感覚を取り戻すことができるのはありがたい。
荷風は同年4月22日に「近巷漫歩」し、12首の短歌を詠んだ。日乗に記録されている歌から市川の風景とそこに仮住まいした荷風の心象風景をあらわしているものを拾ってみる。
一人住む菅野の里は松多し君もきて聞け風のしらべを
いくまがり松の木かげの垣根道もどる我家を人に問ひけり
松しける生垣つゞき花かをる菅野はげにもうつくしき里
傘さゝで人やたづねん雨の日も松かげ深き小道あゆめば
同じく詠んだ歌に「われにもあらず歌もよみけり」とあるのを見ると、俳句ならまだしも短歌を詠むということは荷風にはきわめて珍しいことだったらしい。菅野の松並木は荷風に思いがけない心境の変化をもたらしたわけだ。
いま電車本として山本夏彦さんの『「夏彦の写真コラム」傑作選1 1979〜1991』*3藤原正彦編、新潮文庫)を携帯している。このなかに「美しければすべてよし」という一文が収められている。「写真コラム」の単行本の一冊にこのタイトルが冠されているから、代表的コラムの一つだと考えてよい。この文章は荷風のことを書いたものなのである。田沼武能さん撮影の、左手を火鉢の上に置き抜けた前歯を見せて笑う肖像写真が添えられた一文の最後のパラグラフは、昨日川本さんも紹介された印象深いものである。
荷風の人物は彼が好んで援用した儒教的モラルからみれば低劣と言うよりほかない。それなのに荷風は今も読まれこれからも読まれ、日本語があるかぎり読まれるのは、ひとえにその文章のせいである。その文章は「美」である。荷風は日本語を駆使して美しい文章を書いた人の最後の一人である。おお、私は彼を少年のころから今に至るまで読んで、恍惚としないことがない。些々たるウソのごときケチのごとき、美しければすべては許されるのである。(74頁)
この名文を、荷風を訪ねる車中で読んだ。荷風への思いはいや増しに増す。