アンチ・ブッキッシュ宣言の書

足が未来をつくる

海野弘さんの新書新刊『足が未来をつくる―〈視覚の帝国〉から〈足の文化〉へ』*1洋泉社新書y)を読み終えた。
海野さんの本は、一昨年9月に読んだ『モダン・シティふたたび』以来久しぶり(旧読前読後2002/9/4条)。この間海野さんは次々に新著を上梓している。しかし私の買い求める海野さんの本はなぜか古本ばかり。そのあまりの関心の広さを前に茫然自失しているうちに時間が過ぎ去ってしまう。面白そうなテーマの本だと単行本で高価だったり、新書などで入手しやすければしやすいでテーマにいまひとつ惹かれるものがなかったり、接近遭遇を繰り返していたのだった。
さて今回の新著は、現代におけるデジタル化社会のなかで極度に進展した「視覚文化」は人間を衰えさせるものであると警鐘を鳴らし、返す刀で「足の文化」の復権を唱えるという意欲的な内容。時代は「目」から「足」へ、というテーゼである。ファーストな「目の文化」とスローな「足の文化」を対比するのだが、目から足へというテーゼは唐突すぎるうえに、「足の文化」の議論も多少熟していないという印象を受ける。
とはいえイメージの蒐集家よろしく、神話から、遍歴する人びと、ウォーキング、登山、ワンダーフォーゲル、ダンス、スポーツ、ベンヤミン(フラヌール)、足裏マッサージ(リフレクソロジー)「足の文化」のイメージを積み上げて将来の“足の文化史”への足がかりにしようという意欲に満ちた刺激的な内容に目が眩む。
『パサージュ論』にせよ『失われた時を求めて』にせよ、実際パサージュなりヴェネツィアなりを歩いてこそ読み解くことができるという、“アンチ・ブッキッシュ”な提言が際だっている。ひとつひとつの言葉を大切にし、そこから対象に切り込む方法論が、イメージ蒐集と裏腹に端正だ。
もっとも興味深かったのが、「ワンダリング・スカラー」(遍歴する学者)のイメージ。ヨーロッパでは15世紀頃まで各地を渡り歩いて自由で知的な精神を伝えたワンダリング・スカラーと呼ばれる人びとが存在したという。象牙の塔にこもる学者とは正反対のイメージに驚かされた。エーコの『薔薇の名前』にも登場したとのことだが、これについての本を読んでみたい。
海野さんは、最初は健康のため武蔵野をウォーキングしていた。すると「歩いているうちになにかが見えてきた。いくつかの不思議な体験があった」という。それは、多摩川の土手を毎日歩いている時に、突然、あたりの見慣れた風景がかけがえのないほどすばらしいものに見えた」というものだ。ことさら「不思議な体験」とあげつらわずとも、歩くことはわたしたちに余裕を与えてくれる。この余裕によって思索も生まれる。
東京に移り住み、日常的に歩く、つまり足を使うようになった。足を使う生活はたぶん中学生以来のこと。高校は自転車通学、大学に入るとバイクや自動車に乗るようになり、また仕事もデスクワーク中心ゆえに下半身は衰えるいっぽう。
いまふりかえると笑い話だが、仙台に住んでいた頃、住んでいたマンションから坂を下ってすぐのところにあるコンビニまで歩いていくのが億劫で、わざわざ車を使ったことがあった。あのまま仙台に住み続けていたら、足を使うということを意識せぬまま暮らしていたかもしれない。恐ろしいことだ。
東京に来て歩くようになると、歩いている時間は自ずと環境を五感で感じるようになる。感じたものを頭のなかで言葉にする(ときには五七五の定型にはめこむ)楽しさも生じる。「読前読後」としてまとめている本の感想も、これら徒歩の時間のなかで練られたものが多い。目の文化にとらわれている私ではあるが、足の文化の重要性もまた片時たりとも忘れていないつもりである。