十数年越しの宿願

行人

17日付朝日新聞夕刊に、作家出久根達郎さんが江戸博で開催中の「文豪 夏目漱石展」を観るという特集記事が掲載されていた。そのなかに、新潮文庫漱石作品売り上げ十傑が出ている。
一位こころ、二位坊っちゃん、三位三四郎、四位それから、五位吾輩は猫である、六位草枕、七位門、八位虞美人草、九位道草、十位硝子戸の中
これが岩波文庫だとまた違うのかもしれない。そもそも新潮文庫に小説すべて入っているのかしらんと疑問をもったので調べてみたら、お見それしました。ほとんど入っているようである。とすればまあ一般的な「人気ランキング」とみなして差し支えないかもしれない。
上の十点のなかで、読んだことがないのは『草枕』『虞美人草』で、『硝子戸の中』は記憶があいまいだが、少なくとも拾い読みはしている気がする。いずれにせよ漱石の長篇小説のなかで未読なのは、上記二作品に『彼岸過迄』『行人』を加えた四作品だった。
先日「文豪 夏目漱石展」を観て、何か漱石の小説を読んでみようかという気持ちになり、未読作品のうち『行人』*1岩波文庫版)を選んで何とか読み通した。電車本にしていたとはいえ、一週間あまりかかったことになる。
これまで『行人』には二度ほどチャレンジしたことがあったと思う。しかしその都度はじめの「友達」の章、分量で言えば数十頁あたりで見事に挫折していた。この冒頭の章が噛みごたえがありすぎて、今回もあやうく挫折しかかった。
『行人』を読みたいと思ったきっかけは十数年前に遡る。1991年にNHK教育テレビである作家が漱石作品を一つ一つ取り上げて論じていくという講座があって、その『行人』の回を観て、読みたくなったのだった。講師は加賀乙彦さんだったようにも記憶するが、当時の日記を調べても誰が講師だったかまで書いておらず、どうしても思い出せない。
一郎、二郎の兄弟があって、弟二郎が語り手となっている。兄一郎は大学教師で文系、弟は理工系(建築?)の技師のようである。兄は妻(弟にとっては嫂)を信用できずに、母を加えて四人で和歌山に旅行したある日、弟に対し妻を連れてひと晩二人で宿泊し、彼女の観察をしなさいと命ずる。
たしかその過程が「探偵」というキーワードで説かれていたように記憶し、そこにわたしは単純にも反応したのだった。兄からそんな難事を依頼された弟は、当初こう答えて渋る。

人から頼まれて他を試験するなんて、――外の事だって厭でさあ。ましてそんな……探偵じゃあるまいし。
岩波文庫版にはここに注があって、「現今文明の弊は探偵ならざる人泥棒ならざる人をして探偵的、泥棒的自覚を生ぜしめるにあり」という漱石のメモ書きを引用し、漱石が探偵という職業・行為を嫌悪していたと説明する。そもそも漱石には被追跡妄想(探偵コンプレックス)があったともある。
結局嫂と二人で和歌山の町に出た二郎は、突然の暴風雨のため母や兄のいる宿に帰ることができず、やむをえず嫂と二人で一宿せざるをえなくなるのだが。
漱石は一郎をして次のように言わせている。
人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない。徒歩から俥、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。どこまで伴れて行かれるか分らない。実に恐ろしい。
妻への不信、探偵への嫌悪、文明進歩への違和感、これらは漱石の他の作品にも通底するテーマであろう。一郎はそうした諸々の外的因子に悩まされつくし、極度の精神不安定状態に陥ってしまう。重苦しい物語だ。『こころ』の重苦しさとはまた違ったものがあって、そして『こころ』ほど明快な人間関係の相剋がないために、読むスピードがなかなかあがらなかった。
重苦しい物語のなかでも、語り手である二郎と、その父二人は、快活なキャラクターをもった人物として造型されている。二郎と妹お重のやりとりや、父の挿話が、この物語の中でほっとひと息つける場面になっている。
序章にあたる「友達」の主役のひとり岡田がまだ二郎らの家の書生だった頃、岡田が土産として蟹をさげて帰宅し、二郎らの父に見せた。蟹を見た父のひと言。
何だそんな朱塗りの文鎮見たいなもの。要らないから早くそっちへ持って行け。
こんなやりとりだけ抜き出してみれば、まるで『吾輩は猫である』の一節のようでもある。たしか三島由紀夫も蟹が嫌いだったはずだが、蟹嫌いの論理というものはなかなか考究する価値があるのかもしれない。