第92 「東京暮色」の坂道

東京暮色の坂道

何事にも億劫になって、滅多に人の集まる場所に出かけることがなくなった。ましてや同業者の集まりは敬遠している。それでも諸般の事情で顔を出さねばならないこともある。そんなこんなで久しぶりに同業者の集まりに出かけた。
出かけてみると、旧友と会ったり、旧知の先生から暖かいお言葉をかけていただいたりと、顔を出してよかったとすっきりしたのだが、たぶんこの会はわたしの肌に合うからかもしれない。
この種の集まりは、たいてい一人一人の自意識がぶつかりあって、ギラギラとしたエネルギーが充満しており、それがわたしは好きになれないのである。会場を離れるとどっと疲れが出る。自己嫌悪に陥る。でもこの会はそんなことがない。年輩の人が多いためか、余裕に満ちているのだ。
とはいえあまり積極的に顔を出したいものでもないので、せっかく出かけるのなら「元を取ろう」というさもしい料簡になる。会場も目白台にある日本女子大学という魅力的な場所だったことも大きい。少し早めに出かけ、しばらく近所を歩いてから会場に入ろうという魂胆で散歩地図を取り出した。
地下鉄と都電荒川線を乗りついで雑司ヶ谷で降りる。都電に乗るのは久しぶりだ。電車の軌道と垂直に交わる路地・横丁(おもに荒川区)、また電車と軒を接するように密集している住宅地の狭い路地(おもに北区)、最後尾の運転台の窓からぼんやり眺めていると、そんな何の変哲もない普通の路地を好んで歩いていた数年前の記憶がよみがえってきた。
記憶といっても特定のものではない。それらが堆積して、“ウィークエンドの昼下がり、普通の人々の暮らし”、そんななかを匿名の遊歩者が歩き回って感じた甘美にしてごく大雑把な記憶だ。
最近そのような感覚からすっかり遠ざかっていたことにも気づく。自分を見失いかけながら忙しなく時間を過ごし、休日も特定の用事でしか出かけなくなり、用事が済むとすぐ帰宅してしまうような、余裕のない生活。都電ののんびりしたリズムは、さまざまな思考を活性化させ、余裕を生み出してくれる。歩き出す前にすでに「元を取った」ようだ。
さて雑司ヶ谷。駅を降りて目の前にある雑司ヶ谷墓地を訪れるのは何度目だろう。三度目か。今日はあらかじめ予習してきたわけではなかった。散歩地図にあるおおよその表示や過去の記憶をたよりに荷風や鏡花の墓所を目指したものの、見つけられなかった。
かわりに小泉八雲墓所や、安部磯雄羽仁五郎(羽仁家)・愛知揆一(愛知家)と並んだ壮観な界隈を抜け、あてどなく歩いているうち、以前も訪れた十五代目羽左衛門・六代目梅幸墓所が目に入るとまもなく、漱石墓所に行きついてしまった。漱石墓所護国寺寄りにあったはずだから、あっという間に墓地を縦断したことになる。
時間も限られているので、後ろ髪引かれつつ雑司ヶ谷墓地はそれまでにして、次の目的地を目指す。雑司ヶ谷に来たからには、一度この眼で確認しておきたいと思った場所。小津安二郎の「東京暮色」で、笠智衆一家の家があった坂道だ。
かつてこの映画を観たとき、感想のなかに、雑司ヶ谷の奥だという笠の家は、玄関を出ると前の道がゆるやかな下り坂になっており、その向うはまた高台になっている。いったいどのあたりなのだろうという、マニアックな心がかきたてられる」と書いたところ(→2006/6/25条)、幸いそこが雑司ヶ谷一丁目34番地にある坂道だというご教示を得ることができた。そのことがずっと頭にひっかかっていたのである。
思いがけないところに上り坂があったり、逆に下り坂があったりするような、そしてただ真っ直ぐでない複雑に交わる小道が毛細血管のように張りめぐらされている雑司ヶ谷の起伏に富んだ地形は、歩く者を楽しませる。
久しぶりのそういう感覚に心躍らされながら目指す番地にたどり着いてみると、たしかに両側に家が建ち並んだ狭く緩やかな坂道が目の前を下っていき、突き当たりは展望が開けて家並みが続いている。「東京暮色」の昔なら、「甍の波」が見えたことだろう。いまでも突き当たりの崖下には瓦屋根の古びた家がある。
坂道の上と下から一枚ずつ写真を撮った。帰り道「東京暮色」のDVDを借りてきてさっそく確認すると、たしかにご教示のとおり、笠の家の坂道は、今日歩いた坂道とおぼしい。ただ映画では突き当たりの家の瓦屋根が異様に大きく見える(ということは、あの家は「東京暮色」の頃からあった!)のは、私が撮ったアングルよりもっと下り坂寄りで、しかも極端なローアングルにカメラを据えたゆえだろうか。小津監督があの坂道の上で、大柄な身をかがめながら構図を確認している姿を想像すると、愉快になる。
すっかり暗くなった帰り道、目白台から護国寺方面を抜けようと薬鑵坂(薬寒坂・夜寒坂とも)を通った。住宅街の真ん真ん中を通る、暗くなると少し寂しい通りだ。途中旧町名の表示板があったので見ると、ここはかつて「高田老松町」だったとある。何と。関東大震災の頃百鬼園先生こと内田百間が住んでいた場所ではないか。
今日は荷風には会えなかったものの、漱石―小津―百間と、わたし好みの人びとのゆかりの地をめぐるいい散歩となって嬉しい。

笠智衆の悲しみ

  • レンタルDVD
「東京暮色」(1957年、松竹)
監督小津安二郎/脚本小津安二郎野田高梧笠智衆原節子有馬稲子山田五十鈴中村伸郎杉村春子/信欣三/高橋貞二藤原釜足山村聰宮口精二浦辺粂子/三好栄子/長岡輝子桜むつ子菅原通済/市川和子

このあいだ観たときにも書いたが、この映画が小津作品のなかでも「失敗作」的な位置づけであることが理解できない。それほど140分の長さが長いと感じさせない緊張感を持った佳品である。
都築政昭『小津安二郎日記―無常とたわむれた巨匠』*1講談社)を拾い読みしていたら、この「東京暮色」の意図について小津監督は次のように語っているという。

これは若い子の無軌道ぶりを描いた作品だと言われるが、ぼくとしてはむしろ笠さんの人生――妻に逃げられた夫が、どう暮らして行くかという、古い世代の方に中心をおいてつくったんです。若い世代は、いわばその引き立て役なのだが、どうも一般の人々はその飾りものの方に目がうつってしまったようです。(321頁)
小津安二郎 DVD-BOX 第二集それを知ってから、加えて一度観て筋を知ってから再度見直すと、このことがよくわかる。女房が男(しかも部下)をつくって家を出て約二十年、男手一つで三人の子供を育てた父親。しかし長男は山で遭難死してしまい、長女は嫁いだ先で夫との不仲に悩み、実家に戻ってくる。次女は不良少女的に学生との間で子供をつくってしまい、果てには衝動的な飛び込み自殺をはかって、それがもとで命を失う。
長女原節子が、妹有馬稲子がそうなったのは、きっと母親不在が原因だろうと指摘すると、自分はそうした母親がいない寂しさを感じさせまいと、ともすれば姉が嫉妬するのではないかというほど可愛がって育ててきたつもりなのに、子育ては難しいものだとつぶやく。蒲団をかぶって一人寝たばこをしながら物思いにふける笠智衆の姿が実に印象的だった。
これは家を出た母親にとっても、二十年という時間の重さは同じであり、それを原節子が母山田五十鈴に向かって、妹に対し母親であることを名乗らないでほしいとか、妹が死んだのはあなたの責任だと断罪し、それだけ言って、自分の母親に対する感情をひと言も口にせぬまま立ち去ってしまう冷酷さが身に沁みる。とすればここに、妹とは違い物心ついてから母親が目の前からいなくなった姉娘原節子の二十年という時間の重みも考えなければなるまい。
やはりこの映画はいろいろと考えさせられる。
前回は、このほど訪れることができた「雑司ヶ谷の奥」の笠の家の位置が気になると書いたが、今回は、有馬稲子が堕胎のため訪れる三好栄子の産科医院の場所が気になった。場末じみた駅のホームが映されたあと、医院内部のシーンに切りかわる。
きっと知り合いとは会いそうもない、自宅から遠く離れた町の医院なのだろうが、果たして雑司ヶ谷に家がある娘にとって、堕胎手術をしてもらうために選ばれた医院は東京の(?)どのあたりに設定されていたのだろうか。気になる。