一冊まるまる坪内流

考える人

坪内祐三さんの新著『考える人』*1(新潮社)を読み終えた。
新潮社の新雑誌『考える人』創刊号から始まった、雑誌のタイトルを冠した連載。「あとがき」によれば編集者の側からタイトルを提示されたという。
取り上げられているのは、小林秀雄田中小実昌中野重治武田百合子唐木順三神谷美恵子長谷川四郎森有正深代惇郎幸田文植草甚一吉田健一色川武大吉行淳之介須賀敦子福田恆存の16人。本書の意図は、吉行淳之介の章にて説明されている。

 この「考える人」は単なる作家論や人物論ではありません。
 「考える人」としてのその人を考える論考です。
 そのための作業として、私は、それらの人の作品を読み返して、彼(彼女)らのキー・コンセプトをつかみます。
上にあげた16人を「考える人」という視点で見直してみる。上の引用文の直後で、「「考える人」というメガネをかけて」テキストを再読するとある。
そうすると、対象者が「考える人」とはズレた位置にあることがわかったりする。たとえば武田百合子幸田文はむしろ「見る人」と言うべきであったり、須賀敦子は「思う人」と呼ぶべきであることを発見する。その人のテキストを読み込み、思考のあとを追体験することで、対象者が何を「考え」ながら文章をつむいでいたのかに迫ろうとする。
実はそういう坪内さんの方法こそが「考える人」の実践であった。
 計画的な書き手である私は、いざ筆を執りはじめると、思考を、筆の動きにゆだねます。
 その軌跡を、考えの動きを、あとで、形良く修整することを行ないたくなかったのです。その軌跡そのものがすなわち「考えること」のあり方であり、私の好きな「考える人」たちは皆そのような意味で「考える人」であったはずなのだから。(「あとがき」)
思考を筆の動きにゆだねた坪内さんは、連載のため対象者の本をずっと読んでいるのだけれど、なかなか書くことがまとまらないという「思考」過程もそのままのかたちで文章にする。書くことがまとまらない。なぜまとまらないのか…。そんな苦悩の流れを文章化しているうち、自然に「考える人」としての対象者の論になってゆき、結ばれる。「計画的な書き手」としての坪内さんは、確信犯である。
しかも、わたしの認識では、こうした方法は本書固有のものではないはずだ。坪内さんのこれまでの著書のあそこにも、そこにも、たくさん見られるはずである。ある人のことを書くため、この本を読んでいる。そんな現在進行形の流れだけでなく、その人の著作と出会った過去の記憶をふりかえるという、「メタデータ」を丁寧に書き込むことは、坪内さんの独擅場なのである。
本書はそんな坪内さんの方法論が章単位(取り上げられた人単位)にとどまらず、一冊単位という規模に拡大していることが特筆できる。最初に「考える人」という連載を依頼されてから、第一回はこの人を取り上げ、最終回はあの人を取り上げる。そんな流れと枠組みをあらかじめ「計画的」に構想してから、着手されたのだろう。
ただしハプニングもある。須賀敦子を取り上げるつもりでいながら、締切に追われ苦しい状況にあるので、あえて吉行淳之介を取り上げる。でも、流れとして、その前の色川武大から吉行淳之介というつながりはスムーズに思えるし、「考える人」のコンセプトをつかみきれない吉行淳之介から、「考える人」より「思う人」だったと発見する須賀敦子への流れも切れていないような気がする。ハプニングを装った計画だったかもしれないと穿った見方をしてしまいそうである。
だから本書は、16人の異なった「考える人」を取り上げながら、これまでの坪内さんの方法論が一冊という単位で試みられたひとまとまりの「長篇評論」と言えるのではあるまいか。目についた場所だけの拾い読みより、通読が求められるような本である。
そのなかに、対象者の文章を引用することの意味や、作家論でその作家を読んだつもりにならず、その人のテキストそのものと向き合うことの大事さ、さらには本を読むことの面白さといった主張がちらちらと見え隠れする。テキストに向き合い「考える」ことの重要性については、繰り返しになるが、本書一冊まるごとがその「実践編」となっているのだ。

起承転結が肝要

「用心棒」(1961年、東宝黒澤プロダクション
監督黒澤明/脚本黒澤明菊島隆三/撮影宮川一夫三船敏郎仲代達矢司葉子山田五十鈴東野英治郎河津清三郎山茶花究加東大介志村喬藤原釜足/太刀川寛/沢村いき雄/渡辺篤/藤田進/加藤武西村晃ジェリー藤尾中谷一郎夏木陽介羅生門綱五郎

もはや語るまでもない傑作だろうが、わたしは初めて観た。やはり面白い。ストーリーは単純なのだけれど、何と言っても起承転結がきちんと踏まえられているから物語に起伏があって、スリルとサスペンスに満ちている。最後までハラハラドキドキなのだ。用心棒 [DVD]
小説にしろ映画にしろ、どんな筋であっても起承転結というのは大事なのだということがよくわかる。起承転結、漢詩における絶句の構成を指す言葉であるが、小説・映画といった学芸百般に通じる作法であるというのが意味深い。
脇役の当て方も贅沢だし、意外性があって、黒澤監督でなければこういうふうにはならないだろうと思わずにはいられない。宿場で対立する賭博集団の一方の親方は河津清三郎だが、おどおどして凄味がないような役柄を河津に演じさせるのである。河津に対抗するのが山茶花究であり、こちらのほうが凄味がある。
しかも加東大介がちょっと知恵の足りない暴れ者なのだ(眉毛がつながっている!)。山田五十鈴河津清三郎の女房として計算高く、ジェリー藤尾は三船にあっさり左腕を斬られてしまうし、西村晃加藤武も一シークエンスだけの出演なのだが、それぞれ印象的な役柄である。最後に発狂してしまう宿場名主の藤原釜足といい、それぞれの役に必ず見せ場がある。見事なものだ。