ミステリの「こく」

クロイドン発12時30分

松本清張『黒い福音』と一緒に実家に携えたのは、F・W・クロフツ(加賀山卓朗訳)『クロイドン発12時30分』*1(ハヤカワ文庫)である。あな珍しや、年に数冊読むか読まぬかという翻訳物。長めの小説といい、翻訳物といい、なかなか読む気になりにくいから(ならば買うな!)、こうした時期がチャンスとなる。
清張作品と違い、翻訳物は外国人の名前が頭に入らずストーリーを追うことに難渋し感情移入がしずらいから、読み通せるか懸念されたけれど、さすが“倒叙ミステリの傑作”の誉れ高い作品、『黒い福音』同様食が進み、東京に戻って家に着くまでの電車のなかで最後まで読み切った。
本書は新訳の最新刊(7月)だ。これに先行して同じ作者のこれまた古典的名作の地位が確立している『樽』が、去年同版元・同訳者によって新訳刊行された。堀江敏幸さんの長篇『河岸忘日抄』(新潮社)で触れられていることもあって、出てまもなく買い求めたが、読み控えているうち結局『クロイドン発12時30分』を先に読むこととなった。
わたしはどちらかといえば論理的なミステリよりも、乱歩作品のようないわゆる“変格物”を好む傾向にあった。また、横溝正史のようなおどろおどろしい作品を好んで読んできた。この嗜好も最近変わりつつあるようだ。
『クロイドン発12時30分』の帯には「「刑事コロンボ」「古畑任三郎」へと繋がる倒叙ミステリの大傑作!」という惹句が記され、隅にはご丁寧に「倒叙物」の説明(「犯人からの視点で捜査側が事件の解決に迫りゆく過程をサスペンスたっぷりに描く形式」)までなされている。「古畑任三郎」以来こうした傾向の作品がメジャーになったということだろうが、「倒叙物」という呼び方自体はいまだ市民権を得ていないというべきか。
主人公は電気モーター製造工場の経営者。資金繰りに行き詰まり、破産寸前の青息吐息状態で苦悩している。いっぽうで熱烈に愛する女性がいて、彼女は金持ちしか相手にしないと公言している。彼女の心をつなぎとめるためには、破産は許されない。工場の操業者で、いまでは引退して悠々自適の生活をしている伯父に資金援助を請うが、伯父からは働きが足りないゆえだと叱られ、十分な融通を受けることができなかった。
窮した主人公は伯父殺害を決意する。物語は、殺害計画の練り上げから、実行の経過に至るまで細かく描写される。伯父が死亡してから、捜査の過程で死因が自殺と特定されるものの、他殺の容疑で捜査が継続される間の主人公の心の動きもリアルだ。さらに、安全だと思っていた主人公が突然容疑者として逮捕されてから、裁判での審理過程も細かい。検察や弁護士の論告で一喜一憂する感情の起伏が実に細やか。
犯人が殺人を犯してから逮捕され、有罪が確定されるまでを叙述するタイプの小説だから、当然謎解きの興味以外の部分で読者の興味を惹かなければならない。本書の売りの第一は、綿密な犯行計画とその実行、実行後の意識の起伏の描写にある。捜査するのはクロフツ作品の名探偵フレンチ警部。警部は犯人に何度か事情聴取にやってくる以外、目立った活動を見せない。
一気に存在感を見せるのがラストであり、決着がついてから、事件に関わった検事や弁護士が一堂に会した席で、犯人を特定するに至った経緯が警部自らの口で説明される。ここでの“足を使った捜査”のあらましは読ませるし、犯人を特定する決め手となった証拠の提示には、謎解きミステリに通じる驚きが仕掛けられている。
乱歩は、『幻影城』(光文社文庫版全集26*2)に収められた「倒叙探偵小説再説」のなかで、本書を原書で読んでの紹介文を書いている。かねがね倒叙ミステリの名作と聞かされていたものの、未読だった乱歩はようやく知人から原書を借用し、「取る手おそしと一読」したのだった。
乱歩の紹介文中もっとも印象的だったのは、主人公が伯父を殺すための青酸カリを薬局から入手する場面を説明した一節だ。「この辺の詳細な描写にはなかなかこくがある」(63頁、原文は「こく」に傍点)というのがそれだが、「こくがある」という表現は、本作品全般の説明にも当てはまるだろう。
『黒い福音』第二部において、刑事と新聞記者の足を使った捜査により少しずつ真相が明らかになる過程の描写にも「こく」があった。こういう「こく」を愉しんでミステリを味わうようになったとは、自分も成長したものだなあと感慨を禁じえない。

非散文的な神代辰巳

「赤線玉の井 ぬけられます」(1974年、日活)
監督・脚本神代辰巳/原作清水一行/イラスト滝田ゆう宮下順子蟹江敬三/丘奈保美/芹明香江角英明絵沢萠子殿山泰司/粟津號

滝田ゆうさんのイラストがちりばめられ、何かで目にしたところでは滝田さんが考証にもタッチしたというから、玉の井の空間描写は文句の付けようがないのだろう。
一日で相手をした男の新記録に挑戦する丘奈保美と、ちんぴら蟹江敬三を愛する宮下順子、結婚して一度はカタギになったものの、また戻ってきてしまう芹明香、この三人の話が玉の井の娼家を舞台に並行的に描かれる。
先に観た「四畳半襖の裏張り」といい、神代監督はこうした手法が好みなのだろうか。筋らしい筋がなく、断片的なエピソードをつなげる。散文的というより詩的であり、通奏低音のように演歌のメロディが流れ、滝田さんのイラストが差し挟まれる。イメージが土俗的と言うのか、寺山修司に通じる前衛と言うのか。寺山修司ならまあそういうものだとはなから心構えができているからいいものの、そうでない場合、このようなイメージ連鎖の映画はちょっと苦手である。