「おじさま」のためらいと迷い

おじさまの法則

泉麻人さんの文庫新刊『おじさまの法則』*1光文社文庫)を読み終えた。本書は「〝スタイリッシュな中年向男性誌〟」(「あとがき」)の『BRIO』誌に連載された文章をまとめた、文庫オリジナルのエッセイ集である。
泉さんはわたしとほぼひと回り違っていて、もうすぐ50を迎える(!)そうだ。だからこのエッセイは、40代の男が外の人間からどのように見られているのか、40代の男が現代の社会・文化の流れにどのように接し、適応してゆくのか(してゆけばいいのか)、現代におけるオジサン特有の生態とはどんなものなのか、そんな「男の心理・生理」の襞が泉さん独特の、かつ鋭いものの見方によって微細に述べられている。
読みながら顔がニヤついてくるのを何度抑えたことか。30代のわたしだって、若者というより泉さんのほうに近い。実際泉さんは若者を30代前半までと規定している。立派なオジサン側だ。だから泉さんの心情がとてもよくわかるし、近い将来の自分がそうなることを想像してしまうのだった。
人間40代ともなれば、それまでに築きあげてきた社会的地位や体面がある。それらを守ろうとするために、自尊心が身体のまわりに抜き差しがたくべったりと張りつき、容易にはがせない状態になっている。だから、そうした自尊心を揺るがすような事態に直面したとき、あれこれウジウジと悩み抜く。
本書を読むと、他人から見れば思わず苦笑してしまうようなオジサンの悩み(オジサンにとっては笑えない悩み)、逡巡、躊躇の心理がしつこいほどに細かく描写されている。これらの悩みは、乱暴に言えば「どっちだっていいじゃねえか」と思うような瑣事ばかり。でもオジサンにとっては瑣事ではないのだ。
たとえば「妻」をどう呼ぶかという問題(「妻を言うに向こう山も動く」)。「妻」と表記しても、「もう一つ馴染んでいない」と書く。それに対して向こうは、結婚して間もない女性が相手を「主人」と呼んでさして違和感がない。
四十を過ぎる頃から「カミさん」と呼ぶ頻度が高まってきた。でもそう呼ぶたびに刑事コロンボの姿が浮かんできてしっくりこない。「家内」も「女房」も、40代が使うにはまだちょっと渋すぎる。「細君」では古風すぎる。これに対し関西では「ヨメ」という便利な呼び方がある。

しかし、これが東京をはじめとした標準語の文脈のなかに馴染むか、というとそうではない。東京男がむやみに「嫁」などと語ると、大家族時代の舅が、家に入ってきた嫁を語るような、上から見下している風な冷たい雰囲気が漂ってしまう。(37頁)
だからといって、昨今増えている「ワイフ」は聞いていて鳥肌が立つ。ましてや「パートナー」となると、「嗅ぎたくもない安っぽい洋風シチューをムリに鼻先に突きつけられた」気分になる。
こんな逡巡を読みながら、わたしも似たような感慨を抱いているので、「そうだそうだ」と相づちを打っていたが、関係ない人にとっては「そんなのどっちでもいーじゃん」というべき問題であることにハッと気づかされる。
たとえば「ズボン」の呼び名について、「パンツ」と言うと下着が浮かび、だからといって「スラックス」とは「いまどき最もヤバイ選択という感じだ」。これも「どっちだっていーじゃん」。犬を「うちのコ」と呼ぶことへの違和感、ジムで初めてエアロビをやってみて、最初はぎこちなかったのがだんだんついて行けるようになって、でもあまりにバシッと決まると逆に照れ臭さを感じること、などなど。
かくてオジサンは「どっちでもいーじゃん」の世界をさまよいつづける。たとえ他人から「どっちでもいーじゃん」と言われるような瑣事であれ、そんなオジサンたちが迷い込む選択肢を自分の体験にもとづいてリアルかつあけすけに語ってくれるのが泉さんだ。たぶん50代になっても、還暦を迎えても、その年代の男たちのためらい、迷いを代弁しつづけてくれるに違いない。