一日の途中にある「一杯」

旅先でビール

仕事の帰り道、疲れ切った身体をひきずりながら生協書籍部に立ち寄った。ところがところが、店を出るときには足どりも軽く早く家に帰ろうと急ぎ足になっている。わずかの間に人の気分を一新させた原因は何か。ほかでもない、川本三郎さんの新著『旅先でビール』*1潮出版社)ゆえだ。
こんな新刊が出ることなど不覚にもまったく知らなかったから、新刊書の棚に本書を見つけたときの喜びもただならぬものがあった。しかも川本さんの著書として言い得て妙のタイトル。書名からだいたいの内容も推察できて、慌てて書棚から抜き取り中味を確認すると思ったとおりのエッセイ集だったから、その時点で疲れなどすっかり吹き飛んでいる。ホクホクと購い、ウキウキとした気分で家路についた。一冊の本が人の気分をそんなにも変えうるものなのか。自分でもびっくりした。
さてこのエッセイ集『旅先でビール』は、ここ数年川本さんがあちこちの媒体に発表してきた短いエッセイばかりを集めて構成されている。本書には、『ヨミウリウイークリー』や『旅』に連載(?)されていたエッセイがテーマ別に配置されているほか、『潮』連載の小駅紀行「駅物語」がひとまとまりで収録されている。
そのほか、『東京人』2004年2月号から4月号にかけ、同誌の「表3」部分に掲載されたINAXの広告「気持ちのいい排泄」で連載された三本のエッセイもちゃんと拾われているのが嬉しい。あれを読みながら、今後出るエッセイ集にこれらの文章を漏らさず収めてくれるだろうかと懸念していたのだ。気分一新はこのことも大きく作用している。
大きなまとまり(章)のタイトルは、「ご近所の縁」「日本の町を歩く」「駅物語」「旅の友は映画と文学」「居酒屋の片隅」。書名とそれぞれのタイトルから本書に流れる川本的ライフスタイルが浮かび上がってくる。
一人で町歩きやちょっと遠出の旅を愉しむ。出かけた先で大仰なものを見るのではなく、市井の何気ない情景に出会う喜び。歩き疲れたら、何の変哲もない小さな大衆食堂や居酒屋を見つけ、カウンターの隅に腰かけてビールや燗酒で土地の肴を味わう。ほろ酔い加減で気分がよくなってきたあたりで切り上げ、ふたたび町に繰り出す。
出かける先も観光地ではない。房総の小さな町やローカル線の途中の鄙びた駅。電車に乗ると駅弁にビール。遠くに行くときは行きを夜行列車にする。ビールのおともにミステリや大衆小説。うーん、たまらない。別の著書『ちょっとそこまで』*2講談社文庫)や『火の見櫓の上の海』*3NTT出版)を読んだあとに襲われた気分を思い出した。言ってしまえばこのとき(80年代末から90年代前半)と川本さんのスタイルはまったく変わっていないのだけれど。こんな知人の話を読むと、房総への憧れはいや増しに増す。

この知人は、房総の九十九里に近い町に住んでいて、毎日、二時間以上かけて東京の会社に通っている。「大変だね」というと、「毎日、本がたっぷり読めて楽しい」という。もしかしたら彼は、車内読書を楽しみたいために、海辺の町に移り住んだのかもしれない。(「車内読書の楽しみ」)
川本さんの『火の見櫓の上の海』を読んでからというもの、わたしもときどきふと、房総あたりに住んで長い時間をかけて通勤してもいいかなと思うようになった。クリアすべき問題は、家族の生活(とりわけ子供の学校)とわたし自身の欲望(古本屋・映画など余暇の楽しみ)だろうか。でもずっと東京に住みつづけず、将来いつか房総に引っ越すという選択肢の占める割合が、上の文章でまた大きくなったことは確実だ。
一人旅の途中大衆食堂や居酒屋に立ち寄って、豆腐などの簡単な肴でビールや燗酒一、二本でさっと切り上げる川本的町歩きスタイルは、川本さんのエッセイを読むたび真似したいと思いつつ、性格的な問題か、年齢的な問題(経験の問題)か、実行できないでいる。出張して駅前のビジネスホテルに投宿したおりも、駅前のいかにも大衆食堂然としたたたずまいの店に入ろうか迷った挙げ句、結局近くにあった小ぎれいな雰囲気の蕎麦屋を選んでしまう。そこで酒は呑まない。ビールはコンビニで買い込みホテルの部屋で呑む。
自分はまだまだ川本さんの境地には達することができないなあと思いながら本書を読んでいたら、大きなことに気づいた。川本さんの「ビール・燗酒で一杯」とわたしの酒の意味合いが違うことを。
わたしの場合、酒(たいていビール)は一日の終わりに呑むものだという意識がある。外で呑むとなれば、あとは帰って寝るだけというつもりだからたくさん呑む。家でも、あとは寝るだけというタイミングで呑む。いい気分で床に就く、酔いが醒める前に寝る、そうでないと何だかもったいない。ところが川本さんは違う。散歩に疲れると適当なところで店に入って一杯。気分良くなるとまた外に出て散歩をつづける。つまり酒は一日の終わりでなく、生活の途中にあるのだ。
酒を飲むと脈が速くなって心臓がドキドキすることを気にしてしまい、そのあとの運動や風呂など考えられない。そんな心配性のわたしにとって川本的アルコール摂取法は永遠の憧れなのかもしれぬ。でも、いつかはそんな散歩を愉しめる身になりたいという希望は捨て去らずに持ち続けていくつもりだ。

愉快に笑って心の掃除

「あした晴れるか」(1960年、日活)
監督中平康/原作菊村到石原裕次郎芦川いづみ中原早苗/杉山俊夫/渡辺美佐子西村晃東野英治郎/安部徹/殿山泰司三島雅夫/清川玉枝/信欣三/藤村有弘

いつものようにスカッと晴れた休日、中央線に乗って阿佐ヶ谷へ向かう。ラピュタの「芦川いづみ特集」を観るのは二回目だが、前回の「乳母車」に比べ来場者が多いのに驚いた。定員をオーバーし、補助席や通路で坐って観る人が出るほど。ラピュタでこのように大入りに出くわしたのは、原節子山村聰の「娘と私」以来だろうか。
客層はいかにも往年の「裕ちゃんファン」とおぼしきおばさま方の集団が目立ち、男性もその年代の人が大半を占めている。日曜だからなのか、この映画だからなのか。映画ゆえとすれば、この映画がそんなに客を集めるとは予想だにしていなかったが、観終えて納得した次第。
神田(秋葉原)の「ヤッチャ場」で働きながらカメラマンの仕事をしている主人公の石原裕次郎。叔父叔母夫婦(三島雅夫・清川玉枝)の家に寄寓している。ある日彼のもとに、桜フィルムというフィルム会社から仕事が舞い込む。「東京探検」というテーマで東京のいろいろなところを撮影してきてほしいというもの。
宣伝部長に西村晃、新米宣伝部員に芦川いづみ。芦川が石原の担当となる。芦川はバリバリと仕事をさせるというタイプの女性で、可愛い顔に太い黒縁で四角張った伊達眼鏡をかけ、髪をアップにしておでこを出し、スラックスという扮装。
石原に対し、佃に住むバーのホステス中原早苗も気がある雰囲気。芦川は表面的に石原に反撥しているものの、若さで攻める中原に鋭いライバル意識を燃やす。中原早苗という女優さんは初めて意識したが、ぽっちゃりした山田優という感じでこれまた可愛い。調べてみると故深作欣二監督の奥さんだと知って驚いた。ということは、意識せずにこれまでテレビで観たことがあるに違いない。
芦川と中原が石原をめぐって最初に衝突するバーの場面がスピーディにしてコミカルで、すこぶる面白い。自然と笑いが込みあげてくる。女同士の対決にうんざりする石原と、うろたえる西村晃という取り合わせ。
実は石原に好意を寄せる女性はもう一人いて、それは芦川の姉役の渡辺美佐子。「陽のあたる坂道」同様色っぽい。気だるそうな和服の似合う年上の女という風情で、独身にして書道教室の先生。これがまたいいんだな。
中原の父親で、かつて賭博師いま花売りという東野英治郎、「チャーム・スクール」を経営する妻に頭が上がらず、裏で酒を呑んで女性蔑視のくだを巻き、ちんぴらにからまれたところを石原に助けてもらうしがない中年男が殿山泰司。かつての遺恨から東野をつけ狙う悪相の親分(人呼んで「人斬り根津」)に安部徹。子分たちの細かなアクションがおかしい。
「東京探検」というからには、昭和30年代の東京の様子がたくさん映っているかと期待したけれど、それほどではない。ただ、芦川が運転する車が清洲橋を疾走する場面が素晴らしかった。
中平康監督は、日活を代表する浅丘ルリ子芦川いづみをコメディエンヌに仕立て、とても面白い作品を作っているのだなあ。コメディエンヌ浅丘ルリ子はいたずら心に富み、コメディエンヌ芦川いづみは生真面目さが自然に笑いを生み出しているという感じ。
最近日本映画では懐かしの昭和30年代を振り返り、涙するような「カーテン・コール」や「ALWAYS 三丁目の夕日」といった映画が話題である。わたしも観ればきっと面白く感じ涙するに違いないのだけれど、深い感動を与えるような映画でなくていいから、この「あした晴れるか」のような、笑えて、観たあとにスッキリする軽快なアクション・コメディをもっと提供してくれないものだろうか。あるいはそういう映画はたくさんあるのに、わたしは気づかないだけなのだろうか。
エンドマークが出たとき、わたしの前に陣取っていた旧〝裕ちゃんファン〟のおばさま方は拍手していた。それに同調して拍手するのも癪なのでやらなかったが、心のなかではわたしも大きな拍手を寄せていた。そんな爽快になる映画だった。