藤森照信の刺激

建築とは何か

先の週末、鹿島茂さんの『パリの異邦人』や、小谷野敦さんの『猿之助三代』をたてつづけに読み、読書のカンのようなものが戻ってきたという実感がわいてきた。もちろんそうさせる本あればこそだったからだが、それならこれまでだって継続的にいい本と出会い、読んできたはずである。バリバリ本を読み、それについて何かを思い、文章にするためには、きっかけと、ある程度の助走期間が必要だということだろう。
勢いがついてきたので、ここ数ヶ月「読みたい!」という強い気持ちをもって買ったものの、ほったらかしになっていた本に一気に手をつけよう、そんな意気込みで次に手に取ったのは、藤森照信さんの『建築とは何か 藤森照信の言葉』*1エクスナレッジ)である。奥付が1月になっているから、半年近く放っておいたことになるのか。
本書は、藤森さんによる建築概論であると同時に、近作である「高過庵」という木の上に乗った茶室が構想され、できあがるまでの過程がわかる本となっている。第一部では、概論の文章が右ページに、高過庵に関するさまざまなラフスケッチが左ページに配される。第二部では、第一線で活躍する建築家・建築史家たちが寄せた藤森さんへの質問状にひとつひとつ答えてゆくというスタイルをとる。

わたしは建築という分野とはほとんど接触がないわけだが、藤森さんの書く文章は、いつも歴史を勉強している自分の心にずしんと響いてくるものがあり、その都度「この本を読んで良かった」という深い感慨に襲われる。建築史家なのだから歴史学と接点がないどころではないはずで、藤森さんの考えていること、書くことは、文献史学の徒であるわたしの頭をいたく刺激するのである。前著『織田信長という歴史』*2のなかでも、藤森さんの本の一節を引用してしまったほどなのだから。
本書もやっぱりおなじで、たとえばこんな一節。

自分の連続性の確認というのは、実は毎日やっていて、それが欠けると自分の連続した一部が欠けてしまうように不安になる。人間が「なぜ、私は私なのか」ということを、建築や都市が変わらないことで確認している可能性があるのではないか。(28頁)
これは藤森建築のキーワードである「懐かしさ」について論じた部分で説かれていることだが、「建築や都市が変わらない」ことを確認して自分という存在も連続しているのを自覚し、それが「懐かしさ」という感覚の元になるという考え方は、たいへんよくわかる。
ただめずらしく批判的に思うのは、「建築や都市が変わらない」というスパンが広い現代ならともかく、それらの周期がより短かったと思われる前近代では、この考え方は通用するのかという点。中世や近世の人びとも同じような感覚で自己確認できたのか。そこに「懐かしさ」を感じえたのか。
人間の時間的自己同一性は、ふつう思われているように人間の内にあるのではなく、実は外にあり、外にある物の時間的同一性が目を通して人間の内に働き、人間の時間的自己同一性を保証している。これが、人間にとってなぜ歴史的建物が不可欠かの原理となる。(200頁)
これは先に引用した一文を別の表現で言いかえたものである。「歴史的建物」が残りにくいと思われる前近代、ましてや「歴史的建物」を保存しようという感覚すらなかったと思われる人びとにとって、時間的自己同一性を保証するものは何なのか。藤森さんは富士山などの自然を挙げるが、やはりそうなのだろうか。
普段われわれが建築を見るとき、その作品だけを見ることは実はあんまりないんです。かならず、流れの中で見ている。(中略)ものの正統性の根拠は歴史にしか、時間の流れにしかありません。全部そうです。(135頁)
「建築」を「史料」に置きかえても通用する言葉である。
歴史家は厳密に資料をあたる、それで明快な事実が分かる。それと解釈は別にやるわけだから、解釈は自由にしてかまわない。いい解釈であれば残るし、悪ければ消える。例えば、2しか分かっていなかったら、残りの8は自分で考えるしかない。それが歴史家の仕事だと思う。(270頁)
まったくそのとおりで、座右の銘にしたいくらいだ。
もうひとつ、これは歴史家うんぬんとは関係なく、ものを考える仕事をしている人間にとって肝に銘じたい至言があったのだが、もったいないのでここには記さないことにする。