記号・符号一家言

句読点、記号・符号活用辞典。

仕事の最終目的が書物のかたちで出版することであり、また、文章を公表することなので、自然校正という作業がつきものになってくる。印刷所から出てきた校正紙(ゲラ)に赤を入れて返すわけだが、自分の意図した直しが印刷所の担当者に正確に伝わるよう、字を丁寧に書く。直した字のみで不安なときは、青などを使って補足説明を入れたりする。
その過程で自ずと校正・印刷に関係する専門用語をおぼえるようになる。記号・符号の正式名称などもそうだ。( )を「丸括弧」と言わず「パーレン」と呼び、〔 〕を角括弧と言わず「キッコウ」と呼ぶ。それぞれ後者の名で呼ぶほうがお洒落という感覚的な判断も交じっている。
それでも[ ](大括弧)が「ブラケット」、{ }(中括弧)が「ブレース」という名称であることは知らなかった。小学館辞典編集部編『句読点、記号・符号活用辞典。』*1小学館)で教わった。
本書は名前のとおり、記号・符号類の名称を正式なものから俗称に近いものまであげ、その使われ方を辞典風に用例を引用して解説するだけでなく、PCで使用する各種コードの番号やIME特有の変換方法(たとえばATOKでは「しかく」と打って変換すれば「■」「□」などが候補として出てくること)にも触れ、記号・符号をPCで有効利用するためのガイドブックともなっている。
もちろんただ読むだけでも面白い。書店で手にとってパラパラ立ち読みしたらつい買いたくなってしまったのだった。
記号・符号などの用例も古典的なものだけでなく、現代的な使われ方までカバーする。たとえば「。」「、」などいわゆる句読点について、「芸名・グループ名・雑誌名・書名などの要素として文字列に付けて使われる」(「、」は「芸名・作品名」)として、「。」には「モーニング娘。」「ほっしゃん。」、「、」は「藤岡 弘、」があげられているから笑える。
初めて知ったのは、文章の区切りとしての読点「、」は、台湾では文章の中央部に配されるのだという。あえて表現すれば「ヽ」だろうか。ただしいま掲げた「ヽ」は繰り返し符号(カタカナの繰り返し)としての「一の字点」で代用したものである。
ここまで書いた文章のなかでかぎ括弧を多用してきた。、や。などは自分の書いた本文の区切りでないという意味で「 」でくくったのだが、いずれにせよわたしは「 」や“ ”を使うことが多く、多用は慎まねばといつも気をつけてはいるのである。
本書でこうした括弧の使い方は「文中で他の語句と区別して示したい特定の語句を示すときに用いる」として、そのなかに、(A)作品名その他固有名詞を示すため、(B)地の文の語句とはっきり区別して示すため、(C)外来語などカタカナ語を区別して示すため、(D)特定の用語を定義とともに最初に提示するとき、(E)なじみのない語や新奇な語などを使うとき、「〜といわれるもの」などの意味合いを含めて用いる、(F)その後を自分の言葉として使いたくない場合や、物事がその後本来の意味どおりのものであるか疑問があるような場合に、「いわゆる」という気持ちを込めて用いる、(G)文中で特定の語句を目立たせたり、キーワードとして示すといった用法があげられる。
今回の文章の場合は(B)の例が多いけれど、ふだんは(E)(F)(G)のような意味合いで、とくに深い意図をもたず「乱用」していることになろう。ちなみに今の「乱用」は(F)か。自分としては乱用とまで言ってしまうのはどうかと躊躇するから。
〔 〕の解説で、「 」や『 』に準じた引用符として使われるとし、用例に池波正太郎さんの文章があげられているが、引用符として〔 〕を使うのは池波さん特有の用法なのではないかと思うのだ。そんな点まで気を配って書かれてあれば、マニアックさに磨きがかかるのに。
◎や○、△×などの項では、これが競馬などの予想に使われるということまで書かれてあるから嬉しくなる。
あえて標題を「一家言」としたのは、本書でも立項されている繰り返し符号の「くの字点」へのこだわりがあるからだ。縦書き二字以上、仮名交じりの語句を繰り返すとき、二文字分使って表現される繰り返し符号のことで、「く」「ぐ」を縦長にしたようなかたちなので「くの字点」と呼ばれる。本書には「大返し」「二倍返り」という別称も記されている。
ただわたしがこの符号をくの字点と呼ぶことを知ったのはつい最近のことだから、偉そうなことは言えない。ワープロソフト『一太郎 文藝』を買って(ATOK14と秀英体フォントを導入して)からではなかったか。本書を見ると、区点コード以外のすべてのコード(JIS、シフトJISユニコード)に番号があるから、実装したフォントが増えつつあるのではないか。わたしの愛用しているヒラギノ秀英体にももちろん含まれている。
むろんくの字点は縦書き用なので、ウェブで表現する場合やむなく「/\」とスラッシュ・バックスラッシュで代用する。本書には、くの字点の項でも、スラッシュ・バックスラッシュの項でも、ぬかりなく説明されている。
紙に印刷する場合、これまでくの字点がなかったときには、文字通り「く」「ぐ」を縦二倍角にして代用していた。まあそれなりにくの字点風にはなるのだが、やはり間延びしている印象はぬぐいがたく、かといって他に方法がないため我慢していたのである。
でもくの字点を得た現在では違う。ときどき印刷物、とくにきちんとした書物のなかで、くの字点を「く」の縦二倍角で表現している文章に出会うようなことがあると、興醒めしてしまう。一般用のワープロで表現できるのだから、印刷用でできないはずがない。著者が知らないのか、編集者が知らないのか。とにかく書物での「く」縦二倍角は見苦しい。
印刷でないと出せないが、*(アスタリスク)を「∴」のように三つ重ねたものを「アステリズム」と呼ぶのだそうだ。この記号の使い方として唯一思い出すのは、三島由紀夫作品である。本書でも「文章・文書などで、行を空けて内容上のくぎりを示すとき装飾的に使われる」として、三島の『金閣寺』の用例が出されているから嬉しい。
星一つの*だって同様に内容上のくぎりを示すときに使われるという用法があるが、こちらの解説文の場合「装飾的に」という修飾語がない。三島は文章だけでなく、記号にまで装飾性のあるものを好んだのだなあと微笑ましくなる。

脱獄の果て

「地平線がぎらぎらっ」(1961年、新東宝
監督・脚本土居通芳/原作藤原審爾/脚本内田弘三/ジェリー藤尾多々良純天知茂/沖竜次/大辻三郎/星輝美/万里昌代/晴海勇三

ソフト化されているだけあって、さすがに面白い。鹿島茂さんではないけれど、この一作だけでもジェリー藤尾という俳優の存在感は映画史に輝くのではあるまいか。何か既成の概念をすべて否定してしまうような、とてつもない破壊力を秘めた存在感。
多々良純(通称カポネ)と天知茂(通称教授)が牢名主のようにいる刑務所の雑居房に、一人のチンピラが入れられる。挨拶もなにもなく、すでに入っている同居囚たちへの敬意も感じられないので、最初は散々殴られるのだが、彼の罪科がダイヤモンド強盗で、盗んだダイヤをどこかに隠しているらしいことがわかると、途端に多々良も天知もジェリーを持ち上げるようになる。
やがて彼らは脱獄を計画、まんまとそれに成功する。無事刑務所から出るまでのサスペンス、「グロンサン」の宣伝カーを盗んでチンドン屋風の宣伝部員となってドサ回りを装いながら逃避行を続けるロードムービー的な展開が面白い。
欲に目がくらんでジェリーにおもねる多々良純もこの人でなければという絶妙な演技だし、表面に欲を出さないけれど、心の中では多々良純以上に強欲ではないかという雰囲気のインテリ天知茂もいい。
盗んだダイヤを「地平線がぎらぎらしてるところに埋めた」と繰り返すジェリーの台詞に込められたロマンティシズム。狭くて湿潤な日本という風土のなかで「地平線がぎらぎらっ」しているところなどそもそもあるのかどうか。でもジェリー藤尾がこの台詞を言うと、無国籍風なリアリティを帯びてくる。
こんな素敵な映画がまだまだ日本映画にあるのかと思うと、ゾクゾクと嬉しくなる。

新東宝映画傑作選 地平線がぎらぎらっ [DVD]

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