ミステリの課外授業を愉しむ

課外授業

先日読んだ『感情の法則』*1幻冬舎文庫)などに代表される北上次郎目黒考二さんによる一連の「読書連想型エッセイ」の愛読者である(→2006/11/26条)。
ただ『感情の法則』文庫版に付された池上冬樹さんの指摘は初耳だった。こうした型のエッセイにはモデルがあったのである。ある飲み会で北上さんが「青木雨彦の読書エッセイのようなものを書きたい」と口にしたのを聞いた池上さんは「ちょっと驚いた」という。
日本推理作家協会賞を受賞した正統派評論『冒険小説論』のあとを受けた新連載の相談をしている席での発言であって、『冒険小説論』のような直球派から一転、変化球勝負へ切りかえると池上さんは受け止めた。かくして『ミステリ・マガジン』誌上で連載されたのが『感情の法則』(の原型)だという。
池上さんは、北上さんが念頭に置いていた青木作品とは、『夜間飛行』『課外授業』『深夜同盟』であることを指摘する。同じく『ミステリ・マガジン』連載だった。

海外の新しいミステリに描かれた恋愛風景に触発されて、人生のさまざまな問題(おもに恋愛)を考察したエッセイ集である。〝考察〟といっても、大まじめなものではなく、男女関係の機微をユーモアときわどい艶話を交えながらきりとったもので、いわば、〝ミステリにおける男と女の研究〟であり、〝雨彦流ミステリとのお洒落なつきあい集〟ということになる。(337頁)
北上さんの読書エッセイが範としたほどだから、きっと青木さんの一連の作品も面白いに違いないと気になった。幸い年末年始に『夜間飛行』『課外授業』の講談社文庫版を入手したので、このうち北上さんの本と同じく日本推理作家協会賞受賞作である『課外授業』*2のほうを先に読んでみることにした。
内容は、上に引用した池上さんの意を尽くした紹介文に付け加えることは何もない。ミステリは大好きだとはいっても、本格的な評論は敬遠しがちだし、そもそも読んだことのない海外ミステリを取り上げられたら読む気が起こらない。
でもこの系統であれば、対象となった作品を読んでいなくとも楽しめる。トリックや筋とは無関係な、小説のなかで展開される人間関係、とりわけ男女の恋愛の場面を切りとり、そこから現実的な体験を結びつける。こんな斜に構えたタイプのエッセイが大好きだから、一読、すっかり気に入ってしまった。
実は青木さんの本を読むのは本書が初めてである。どういうタイプの書き手なのか、古本屋などで並んでいる本を時々斜め読みしたり、家にある“夕刊フジ連載山藤挿絵本”である『にんげん百一科事典』を拾い読みするなどで雰囲気は知らないわけではなかったが、なるほどこういう書き手なのかと納得した。
池上さんが言う「きわどい艶話」というポイントがもっとも印象深い。北上エッセイの場合、小説に描かれた男女の恋愛をとりあげ、そこに「きわどい艶話」があったとしても、そこから連想される個人体験の部分で「きわどい艶話」に触れることは少ない。むしろそういう境遇になりたいという中年男の熱い思いが開陳されることになる。
青木エッセイの場合、北上エッセイに見られた家族の話は登場せず、もっぱら話題は恋愛に限定される(まあ副題が「ミステリにおける男と女の研究」だから当たり前か)。しかも引用される小説の類推から、自身の思いや体験、夫婦仲などが「きわどく」紹介される。
当時青木さんは四十代前半。熱々の時期を過ぎ、少し薹の立ってきたような、倦怠期に差しかかったような夫婦仲がユーモアを交え露悪的なまでに述べられる。漂うのはもっぱら「軽み」で、北上エッセイのような哀愁はない。いずれがいいかということではなく、両者にはそんな違いがある。
不思議だなあと感じるのは、青木エッセイに引用される翻訳ミステリの文章(会話体であることが多い)がすんなり頭に入ってこないこと。北上エッセイの引用文はひっかかりなくすっと頭に入ってくるのに。この違いは何なのだろう。70年代と現在の時代差ということかもしれないが、あるいは70年代と現在の翻訳の文体の差、彼我の社会意識などの接近ということにもなるのか。
昨日書いた外国翻訳文に対する微妙な違和感という話と関係するが、ひょっとしたらわたしが懸念するほどに、現在の翻訳書は「日本人が日本語で書いた本」と差異はないのかもしれない。
『にんげん百一科事典』はもとより、もう一冊の『夜間飛行』も、パラパラ眺めてみると、翻訳ミステリの印象的な場面から自由に考えを飛翔させたような、たくさんの短いエッセイがぎっしりつまった、すこぶるわたし好みのつくりになっている。大切に読んでいこう。