興味が尽きない地名の話

東京の地名由来辞典

あたりまえだが、国境、県境など、土地を分ける境界線は目に見えるように地面に引かれてあるわけではない。あくまで概念上のものであって、決めるのは人間である。まっさらな空間に線を引いて分節化し、仕分けられた場所ごとに名前をつけ認識してゆく。人間による認識行動のひとつが地名なのである。最も没個性的なのは数字による識別だろうが、数字が付されず残った土地ですら、「網走番外地」のような名前を付けられて認識される。
地名の付け方は多種多様だ。普遍的な方法(土地の特色による)もあれば、地域的個性、歴史的個性がある。その地名がいかなる由来で名付けられたのかを知ることは、その地域がいついかにして人間に認識され空間として受け入れられたのか知る手がかりになり、名付けた人々の文化的特質をうかがうすべになる。
大学の生協書籍部をさまよっていたら、一冊の本が目に飛び込んできた。棚の目立つ位置に、つい手に取りたくなるように置かれている。竹内誠編『東京の地名由来辞典』*1東京堂出版)だった。売る側の思惑に見事はめられ、手に取ってパラパラめくってみると面白そうだ。棚の場所はいつも出版社フェアが行なわれている特別な場所にある。ちょうど東京堂出版20%引きフェア開催中なのであった。こうなると買わずにはいられない。ほとんど衝動的に購入してしまった。
帰宅して、最初から最後までざっと目を通したあと、さらに任意のページを開いて目に入った項目を読む。これを飽きずに何度も繰り返している。東京(本書は二十三区内限定)の地名はそれほどに興味深い。
もともと太田道灌の居城があった江戸だが、豊臣秀吉により徳川家康が関東を拝領し、東海地方から移って本拠を定める。関ヶ原の戦いを経てそこに幕府が開かれると、日本における政治の中心都市として栄え、多くの人が集住した。戦国武将の所領として一定の支配がなされていたとはいえ、ほとんど未開の原野に空前の人が集まり、暮らすようになり、都市に発展すれば、その空間が細かく分けられ、名付けられていくのは必定だった。
明治維新による江戸幕府の崩壊により、江戸は東京と改められ、新しい国家の首都となった。さらに人間は集まってくる。都市化は周辺にも及び、それにともなって旧来の地名が変更させられる場合もあった。
つまり東京の地名とは、江戸以前に遡るもの、江戸開府によるもの、近代以後に名付けられたもの。大雑把に三つの層に分かれよう。もっと細かく、昭和30年代末から40年代初頭にかけての、あまり評判が芳しいとは言えない無味乾燥な住居表示変更も加えてよい。いやむしろ、本書を読みこの住居表示変更がたんに無味乾燥なマイナス面だけのものでないことを知ったのは大きかった。
わたしの住む足立区は江戸東京から見れば辺境であり、都市化がもっとも遅かった。だからこそ江戸以前、中世以来の古い地名が残った貴重な地域であることがわかる。たとえば伊興(いこう)は鎌倉時代の地名だというし、花畑は南北朝時代、島根は室町時代、舎人は記録上こそ戦国時代であるものの、名前自体は古代の宮廷に仕えた下級官人の職名に由来する。お隣の葛飾柴又はむかし「嶋俣」と称しこれは古代まで遡るという。
新田開発が盛んに行なわれていたから、開発者伊藤嘉兵衛の名前を取った加平(かへい)という地名にもおもむきがある。嘉兵衛が加平となったのは、平安な土地になるようにという気持ちが込められてのことだという。こうした近代的な縁起担ぎとも言うべき名付け方は、たとえば愛住町(新宿区四谷)や住吉(江東区・杉並区)、末広町千代田区)などがある。葭原(あしはら)の葭は「悪し」に通じるから「よしわら」となった吉原や、亀無(梨)の「なし」は縁起が悪いからという亀有などにも通じる。
上にあげた住吉は東京にいくつかあって、なかでもたんに住みよい町になることを願ったという理由だけでないのが、日本橋の住吉町(現日本橋人形町二・三丁目)である。ここはもともと吉原遊廓があった場所で、遊廓が浅草(新吉原)へ移転したあと、跡地には謡曲から住吉町・高砂町新和泉町・浪花町の町名が付けられたという。
高砂は結婚式でも有名な謡曲に由来するものであり、こうした考え方は京成電車の駅名にもある高砂葛飾区)と共通する。この地域は昭和7年以前は「曲金」(まがりかね)と呼ばれていた。明治の地租改正時このなかに小字名として謡曲にちなんで須磨・明石・朝妻・墨田・高砂・出雲・吾妻という地名が付けられたが、昭和7年時の葛飾区誕生のさい、曲金では読みにくいし語調が悪いとのことで小字名からもっとも縁起が良い高砂が選ばれたという。謡曲を地名にするという心性は江戸・明治までだろう。
江戸由来といえば、城下町としての地名(一番町〜六番町・百人町・銀座、牛込の町々など)や、大名・旗本屋敷にちなむものがある。後者で言えば青山や神保町・越中島紀尾井町信濃町などが有名だ。神田錦町などは、そこに一色家の屋敷が二つあり、一色が二つで「にしき」、そして「錦」となったというから洒落っ気がある。
先に加平が開発者の名前を取ったと書いたが、同じような由来をもつ場所に砂町(現江東区)がある。前々からここの地名の変化は面白いなあと思っていたが、本書を読みその意をいっそう強くした。もともとここを開発したのは砂村新四郎という人物で、彼の苗字を取って砂村新田と呼ばれた。明治22年に砂村となり、大正10年に砂町と変更される。
これはどう考えてもおかしい。砂村という苗字が地名に採られたわけだから、行政単位を付けるならば「砂村村」にならなければならない。しかしそんな来歴は無視され、「砂村町」でなく「砂町」になってしまう。都市化により「村」が「町」に発展するという近代的意識が地名由来をも蹴飛ばしてしまう。でもこれはこれで面白いのだ。そのうえ昭和42年には「町」が落され、方向表示が冠せられて東砂・北砂・南砂・新砂と変更されてしまう。もっとも砂村氏が開発したという説のほか、当地が海浜の砂地であったからという異説もあるそうなので、この場合は砂村→砂町でも何ら無理はないのである。
戦後の住居表示変更も一概に悪くないと思わされたのは、わたしもなじみのあるお花茶屋(葛飾区)だった。もともとこの名前は、徳川吉宗が鷹狩りでこのあたりを訪れたとき、にわかに腹痛を起こしたが、休んだ付近の茶屋の娘お花の手厚い看護で快癒したため、吉宗から「お花茶屋」の名前を賜ったことに由来する。
しかしこの名前はあくまで茶屋の名前であり、地名としてあったわけではなかった。それが、昭和39年の住居表示実施により、上千葉町・下千葉町・亀有町・本田宝木塚町の各一部を整理統合して名付けられた結果誕生したのが「お花茶屋」だという。いくつかの町が統合され一つの地名となるとき、決まって争いが起き、結果どの地名でもないおかしな名前が別に持ってこられるというのは、このところの市町村大合併で見られたつまらぬ現象である。本書を読むと東京でもかつていくつかこうした事例があったことがわかるが、このお花茶屋の場合、土地の歴史が踏まえられたプラスの例だと言えるだろう。
近代以降の地名付けの特徴のひとつに、学校由来という事例があげられる。成城(世田谷区、成城学園)や自由が丘(目黒区、私立自由が丘学園)などが有名だ。そのほかにも、桐ヶ丘(北区、桐ヶ丘小学校)、弘道(足立区、弘道小学校)、東陽(江東区、東陽尋常小学校)、若木板橋区若木小学校)など小学校が先にあって、その学区地域の地名になったという例が目につく。
そもそも桐の木が多かったからとか、『論語』の一節によるとか(弘道)、児童が若木のようにすくすく育つようにといった学校名の由来が問われなければならないが、たんに地名の由来だけ考えれば、“(小)学校が地域統合の象徴”という考え方がこれらの動きの基底にあったわけであり、教育の質の変化によりそうした考え方が薄まりつつある現在の状況をかんがみて、地名付けの歴史性ということにも思いが及ぶのであった。

田中登は散文的だが…

「実録 阿部定」(1975年、日活)
監督田中登/脚本いどあきお/宮下順子江角英明/坂本長利/花柳幻舟

結局神代辰巳にせよ、田中登にせよ、ロマンポルノの雰囲気はどうも肌に合わない。演歌的と言えばいいのか。これが70年代のテイストなのか。軍部台頭という時代の雰囲気をただよわせているという点では、神代監督の「四畳半〜」に軍配。阿部定が犯行を犯してから捕まるまでをきちんと出しているので、さすが「実録」か。
実録 阿部定 [DVD]