サラリーマン小説今昔

招かれざる仲間たち

先月、中公文庫の「人生の一冊」シリーズとして、松本清張『実感的人生論』と源氏鶏太『わたしの人生案内』が刊行された。いまブームまっただ中の清張はともかく、なぜ源氏鶏太なのだろう。不況でサラリーマン社会が揺らぎつつあるなか、サラリーマン小説の元祖源氏鶏太にも再評価の機運が生じているのか。
いまのところどちらも購入していないので偉そうなことは言えないのだが、この2冊について、首をかしげるような出来事に遭遇した。勤務先の生協書籍部には、このうち清張の新刊のみ並んでいるのだ。
文庫は単行本にくらべ目配りが行き届き、中公文庫ともなればふだんはすべてのラインナップが平積みされるはずだが、なぜか源氏鶏太の新刊が見あたらない。訝しく思ったので、清張本の山の下のほうに沈んでいるのではないかと、平積みされた清張本を数冊取り除けて確認してみる。でも出てくるのは同じ本ばかり。
意地悪く穿った見方をしてしまえば、仕入れ担当もしくは取次の配本担当がこう判断したのではないか。ここの学生にとって、清張的劣等意識とは縁があるかもしれないけれど(いや、清張にとってここの大学ほど敵意を抱く相手はないはずだが)、源氏鶏太的明朗サラリーマン世界とは無縁のはず、と。そんなことはないか。
先に「なぜ源氏鶏太なのか」と問いかけたのにはわけがある。実はここ一、二年自分のなかで源氏鶏太作品への関心が少しずつ高まっており、そこにきて上記のようなエッセイ集が出たので嬉しかったのだ。それでいていまだ買わないのは面目ない次第。
罪ほろぼしにというわけではないが、昨年買い込んでいた源氏の連作短篇集『招かれざる仲間たち』*1新潮文庫)を読んでみることにした。私にとって初めての源氏作品。それが正統的純サラリーマン小説でないことがいかにも私らしい。裏口からそっと源氏鶏太の作品世界へ忍び込む。本書はサラリーマン社会を題材にしてはいるものの、幻想的、怪奇的な味つけがなされた非日常小説集なのである。
ある作家が幻想小説家か、ある作家の作品が幻想小説なのかどうか、そんな判断基準となるのが『別冊幻想文学6 日本幻想作家名鑑』(幻想文学出版局、1991年)だ。ここにちゃんと源氏鶏太が立項されており、『招かれざる仲間たち』も登場している。本書以外にも幻想怪奇譚を多く書いた源氏鶏太について、執筆者は次のように述べている。

それらは、いわば裏返しのサラリーマン小説、家庭小説であり、職場の人間関係をめぐる葛藤、怨恨や男女間の愛憎のやむにやまれぬはけ口として、作者の幽霊や妖鬼は出没するのである。(109頁)
現代における家族小説・サラリーマン小説として思い出すのは重松清さんの作品である。重松さんにも、それらのテーマを裏返しにした“アーバン・ホラー”と銘打つ短篇集『送り火*2文藝春秋、→3/12条)がある。源氏作品を読みながら、「どこかで読んだことがあるような…」と感じていたのは、この重松作品を読んでいたからかもしれない。
もちろん、源氏作品が書かれた昭和50年代前半と現在では、サラリーマンを取り巻く社会環境に変化があって、源氏鶏太的幻想怪奇譚がバックボーンとしている「現実」はいまの感覚とはだいぶ異なっている。逆にその差異を味わうことが読む立場としてはとても面白いのだけれど。
終身雇用制を前提に生じる「窓際族」の怨念を取り上げた「社内失業者の死」*3などは、現在ではリストラにスライドせざるをえないだろうし、社長の浮気、出張先での浮気がテーマの場合、いまでは「不倫」という言葉で、あるいは妻側から取り上げられることもあろう。「少年の自殺」という一篇があるにしても、中心はサラリーマン主人公の戦災体験だから、源氏作品の世界(あるいはその時代)において、家庭における教育問題から非日常的世界に通じる裂け目は考えにくい。
しみじみと泣けるような、重松作品に通じる一篇といえば、大阪飛田遊廓を舞台に30年の時間を隔て、サラリーマンの思い出が交錯する「俗名いさみ」に指を屈する。また怪奇譚としての怖さからいえば、この世への未練を残したまま夭折した若い女性の亡霊と毎夜セックスを重ねたはての恐怖を描いた「壁を叩く」だろうか。
【追記】後日書籍部を見たら、冒頭で触れた『わたしの人生案内』が平積みされているのを発見した。清張のほうが残り3冊となって別の場所に背を見せるかたちで立てられていたことから推せば、私の想像どおり清張本の下に沈殿していたものと思われる。あのときもっと掘り起こしてみればよかったのだ。だから、「意地悪く穿った見方を…」の箇所は撤回いたします。失礼しました。

*1:ISBN:4101118280

*2:ISBN:4163223703

*3:ちなみにこの作品には「窓際族」という言葉自体は登場しない。調べてみるとこの言葉は1978年の流行語とのことで、まさにこの作品が発表された年にあたる。流行を知っていて作者があえて使わなかったのか、まだ流行前だったのか、興味深い問題だ。なお、驚くべきことに『広辞苑』第四版からはこの言葉は消えている。すでに死語ということか。