ソシュールを超えて

本を読む人のための書体入門

正木香子さんの『文字の食卓』*1本の雑誌社)は、文字好きにとってこのうえなく素敵な本であった。だから、本好きのうえに文字好きだろうと踏んだ同僚にも薦めた。
期待どおりそれを面白く読んでくださったようで、今度は逆に、正木さんの新著が出たことを教わった。『本を読む人のための書体入門』*2星海社新書)である。昨年12月に出た本で、発売後ほどなく教えられ、すぐ買ったはずだけれど、しばらく読まずに放ってしまっていた。
ようやく身辺に余裕が出てきたので積読の山から本書を掘り起こして読み始める。果たして一気に魅了された。前著『文字の食卓』からすでに感じていたが、正木さんの文字に対する関心のあり方が、自分のそれととても近いことをあらためて実感した。しかも本書では共感するところが随所にあって、何度も深くうなずきながら読み終えたのだった。
『文字の食卓』が実践編だとすれば、本書『本を読む人のための書体入門』は書名のとおり入門編なのかと言えば、実はそうではない。理論編というか、思想編である。著者の字体(フォント)に対する考え方が、軽やかで平明な文章を用いて力強く説かれている。
ソシュールによって提唱された言語論のキーワードとして、シニフィアンシニフィエがある。言葉を表記する文字や音声といった表面的な要素と、指し示す意味を示す要素のふたつから言葉が構成されているというのである。
ところが『本を読む人のための書体入門』では、そうした言葉のもつ二側面というソシュール以来の言語論をあっさり超えてしまった。字体というもうひとつの要素こそ、享受者に伝えられるあたらしい第三の感覚である。おなじ言葉であっても、字体が異なればまったく違った印象を与える。字体が固有の雰囲気を身にまとっているのである。これはたいへん画期的なことではあるまいか、と思う。
本書は従来も星海社新書の本文書体として使われてきた筑紫明朝が採用されている。編集部からは、字体の本なのだから自由に選んでいいと言われたが、正木さんはそのまま筑紫明朝を選んだという。この書体、わたしがかつて出した本のシリーズでも使われていた。そのシリーズから本を出すことが決まってからというもの、近刊を眺めては、自分の文章がその書体に包まれることを夢見た。筑紫明朝という字体は、その端正なたたずまいが、読む者をして一字一句もおろそかにさせないという雰囲気がある。少なくともわたしはそう感じる。
とはいってもその字体が筑紫明朝という名前だと知ったのは、後の話である。上述のように気になる字体だったため、本の校正中、校正のやりとりをしていた編集者の方に「この本の字体は何と言うのですか」と質問して教えていただいたのだ。
そのひとつ前の本では、やはり字体にこだわり、版元にあたらしい字体セットを購入してもらった。もちろんその字体は拙著のためということではなく、もともと別の字体を揃えてこれからも表現豊かな本をつくっていこうと考えていた版元の意向とうまく合致したからこそ、そうしてもらえたのである。幸運だった。
いま別に二つの企画が進行中なのだが、ひとつは僭越ながら字体を指定させてもらっている(実現するかは未定)。いまひとつは、そのシリーズで用いられている字体がやはりわたしの大好きなものであるため(こちらは名前をすでに知っている)、前著同様その字体で表現される自分の文章をイメージしながら準備を進めている。
このようにわたしは、内容以上に、文章が表現される字体の美しさ端正さにこだわりを持っている人間であり、これは自分の所属する業界では異端に属するだろう。版面の美しさより内容の良し悪しが問われるべき業界だからだ。でもわたしは、たとえ内容が良くても、それを表現する字体が醜ければすべてが台無しになると考えている。
正木さんの考え方に共感することのもうひとつは、キーボードで文章を打つとき「かな入力」を使っているということだ。大学生のときにワープロ専用機を購入して以来25年を経過しているが、わたしも最初からかな入力であり、ローマ字入力に浮気したことはない。最近でこそ、電子辞書はかな入力をはなから拒否しており、公共の場所にあるパソコンをわざわざかな入力に変えてから打つことまでしなくなったため、ローマ字入力には慣れてきた。大きな流れに乗せられやすい性格なのだが、これだけは死守したい。
ワープロに親しみ始めた当初は、キーボードのキーを万遍なく使いたいという貧乏根性からかな入力を選択したのだが、それに慣れるうち、自分の頭で考えた文章がいったんアルファベットに変換されることがどうにも許せなくなった。日本語で考えている以上、浮かんだ文字をストレートに日本語キーボードに打ち込みたい。そんな意志が少しずつ強くなって今に至っており、たぶん死ぬまでかな入力はやめないだろう。
かな入力派なので、ノートパソコンを選ぶのにも条件がある。ローマ字入力主体だと、右のほうにあるキー(「け」「め」「ろ」「む」など)が、ほかのキーにくらべて小さいものがある。これはかな入力派としては受け入れられない。全部のキーがおなじ大きさであるのが理想である。意外にマックがそうなので、それだけで嬉しい。右端の、ローマ字が割り当てられていないキーが不当に小さいのは、ある種のマイノリティ差別なのではあるまいか。
そんなことを考えていたので、正木さんがかな入力派だと書かれていてとても嬉しかった。記号論を超えた言語論の展開、字体へのこだわり、かな入力、この三点によってすっかり本書の魅惑にとりつかれた。たかが新書とあなどるなかれ。中身はとても充実した、強靭な思想が展開されている文字論、言語論なのである。