読書史の5W1H

東大生はどんな本を読んできたか

永嶺重敏さんの新著『東大生はどんな本を読んできたか―本郷・駒場の読書生活130年―』*1平凡社新書)を読みながら、ふと5W1Hということが頭に浮かんだ。
読書史には(いや、読書史に限るまいが、とにかく読書史には)5W1Hの観点が必要だ。誰が(Who)、何を(What)、いつ(When)、どこで(Where)、どうして(Why)、どうやって(How)。永嶺さんがこれまでの研究で追究されてきたのは、「読書空間」「読書装置」という言葉であらわされる概念だった。
読書史である以上、Whenは基本的要素であるが、とりわけ「読書空間」「読書装置」という概念は、WhereとHowとの関わりが深い。人はどこで、どうやって本を読んできたのか。そこへの注目が「読書空間」「読書装置」という切り口によって検討されてきた。
そんなことを考えていたら、新著のタイトルが、5W1HのうちWhoとWhatを使ったものであることに、遅まきながら気づいた。いや逆に、そういうタイトルだからこそ5W1Hということが浮かんだのだろう。しかもサブタイトルにはWhenの含意がある。WhoとWhatへの視点を定めたうえで、従来の研究であるWhereとHowの方法論を適用しようとした試み、このようにまとめることができるだろうか。
今年は東京大学創立130年。本書は、この130年という時間の流れのなかで、「日本のエリート」たる東大生がいかなる本を、どんなふうにして読んできたのか、当事者の回想や書籍の売上記録、学生の生活実態調査など、さまざまな資料を駆使して描き出した永嶺読書史の新たな試みである。
タイトルにWhatが入っている以上、明治の昔から大正教養主義、戦前の左翼的読書、戦時下の読書生活から、昭和30年代の岩波文化を経て、現代の情報誌・マンガへと、東大生が何を読んできたのかについて、きめ細かに目配りされている。
まあしかしこの流れは、東大生という対象に限定しなくとも、一般的な「大学生の読書」の大波のなかに呑み込まれかねない。やはり個人的には、Who=東大生という固定的な視点を導入することで見えてくるWhereとHowの風景が面白かった。
Whereでは、学生の重要な「読書装置」であった大学図書館の変遷や、大学周辺、とりわけ本郷界隈における書店・古書店の風景、また、いまわたし自身もお世話になっている(そして何かと苦言を呈している)大学生協書籍部の歴史が押さえられていることが嬉しかった。
Howでは、“〈共読〉から〈孤読〉へ”という指摘に収斂されるだろう。大正時代における東大生の読書は、「新人会」さらに「研究会」という学生組織によって担われた。簡単に言えば読書会であるが、わからない箇所などがあると、OBなど指導者格の人物が手ほどきする。「このような読書形態は禅の修行というよりもむしろ、近世の藩校等で見られた儒学四書五経の会読を彷彿とさせるものである」という、共同的のなかに上下関係が見られるものであった。
こうした新人会がマルクス主義思想の温床として当局に目をつけられ、解散に追い込まれると、学内公認の出身高校別読書会がその役割を果たしたという。
敗戦直後の昭和21年にできた東京大学協同組合が、昭和31年に現在のような「東大生協」となる。もともと戦前から東大には、外部組織として「東京学生消費組合」という生協の前身的存在があり、学生たちが読みたいと考える書物を大量に入荷して廉価で販売したり出版活動を行なうなど、読者共同体の重要な核となった。
戦後の生協もまた、教科書の共同購入を行なうだけでなく、読書会などを開く「読書サークル」を組織する媒介ともなった。大学は違うけれど、わたしの出身大学の生協書籍部にも読書サークル(正確には「書籍サークル」)があって、所属していた。
わたしの言うサークルというのは、読書会というよりも、共同購入を目的としたものだった。研究室のなかにいくつかある時代別の研究会に所属する大学院生や学部生が任意で入るもので、当初はサークルを通して本を購入すると担当者が毎月の支払額を徴収し、まとめて生協に支払う「月払い」のシステムだった*2。メリットは月払いのほか、サークルごとに書籍部内に「棚」(注文した本をプールする場所)が割り当てられ、ちょっと買いすぎだと懸念される月には、その棚に取り置きしてもらえ、取り置き期間もかなり融通がきいたことだ。
しかしこのやり方は時代の流れによって変化を余儀なくされた。月払いと「棚」こそ残ったものの、代金一括徴収という仕組みは個々人の口座引き落としに変わり、サークル(共同体)としての意義が形骸化する。しまいには「棚」もなくなり、たんなる「カード払い」による書籍購入になりはててしまった。
かくして末期でこそあるものの、かろうじてわたしは「読書サークル」が大学生協のなかに生き残っていた時代を知る人間である。「読書サークル」は、その言葉から当然のことながら、もともとは購入だけでなく、〈共読〉のための組織だったのである。
永嶺さんは、別の研究者による研究を敷衍し、「現在の学生たちの読書における〈共感〉の喪失」、〈孤読〉化を指摘、そうした趨勢をはねのけて〈共読〉のむかしに回帰させる試みなどを紹介する。「読書マラソン」運動が代表的なものである。
ブログの読書日記などは、たしかに共感を生みはするだろうが、共感する相手はネットという仮想空間の向こう側にいて実体感にとぼしい。〈共読〉というのは、「本という物理的な存在とそれを手に取るという身体性をともなった読書体験の共有」(269頁)である。
はたして現代の社会において、そういう意味での〈共読〉を媒介にした学生の読書文化は再生しうるのか。わたしもかねがね読書にとって「身体性」が大事であると感じていた。ロジェ・シャルチエはすでに読書史における「身体性」の問題に着目している。〈共読〉/〈孤読〉というキーワードは、現代社会における読書の身体性を考えるうえで、重要な分析視角になりうるかもしれない。

*1:ISBN:9784582853940

*2:その意味では同じ本を共同購入し、研究会で読むという側面がないわけでもない。