パセンジャーとしての久保田万太郎〔病中病後その4〕

わたしの詩歌

病院のベッド上での長く無為な時間をつぶすためにはどんな本を読めばいいのか。こういうときこそふだん読めないような大長篇を読むべきかもしれない。頭の中に、あれか、これか、これまで読もうと思いつつ果たせないできた長篇のいくつかが思い浮かんだ。
ところが、読書にふりむける時間がありすぎ、かえって集中力がそがれる事態に立ち至ったことは昨日書いたとおり。とすれば大長篇は頭を疲れさせるだけだ。適度に目移りして倦んだらすぐに本を閉じることができるような、良質の短文を集めたアンソロジーがいいのかもしれない。
そこで目をつけたのは、購入以来気になりつつ読めないでいた文藝春秋『わたしの詩歌』*1(文春新書)。46人の文筆家が、人生の折々で出会って印象に残った詩歌を選んで綴った書き下ろしエッセイを収めたアンソロジーで、私の愛読する人たちが数多く目次に並んでいる。たとえば関川夏央高島俊男養老孟司森まゆみ久世光彦矢野誠一鹿島茂堀江敏幸川本三郎井上章一中野美代子などなど。
人口に膾炙した詩歌を選ぶ人もあれば、聞いたことのないような詩や詩人を持ち出してくる人もいる。前者では井上章一さんの「六甲おろし」や川本三郎さんの讃美歌、後者では鹿島茂さんの津村信夫堀江敏幸さんの川村郁。堀江さんの一文は最新刊『一階でも二階でもない夜』中央公論新社)に収められ、はからずもそちらを先に読んでしまった。
取り上げられた作者でいえば、宮沢賢治中原中也が目につく。ただ印象に残ったのは何と言っても久保田万太郎だった。久世光彦さんと鴨下信一さんお二人が取り上げている。
とりわけ久世光彦さんの一文「立ち去りの美学」を読んでいるうち、無性に久保田万太郎の俳句を読みたくなり、妻に頼んで部屋にあった久保田万太郎全句集』中央公論社)を病室に持ってきてもらい、最初の自選句集『草の丈』から一句ずつ読んでゆくことにしたほど。
久世さんは万太郎の次の句を示し、「これを、傾きかけたもの、亡びようとしているものへの、万太郎の切ない溜息と聞くのは、とんだ勘違い」とする。

人 情 の ほ ろ び し お で ん 煮 え に け り
久世さんはこの句に「万太郎の皮肉の一瞥」を見た*2。万太郎を市井の人情の人とだけ見るのでなく、その場に一瞥だけくれて立ち去る「背中を丸めたパセンジャー」でもあることを強調する。ドライな都市観察家としての久保田万太郎
芝居にせよ俳句にせよ、この人の袖に触れた後、私たちの中をひんやりした秋風が吹き抜けたように思うのは、そのせいだろう。――万太郎は、後ろ姿のつれない女である。(66頁)
「後ろ姿のつれない女」とはいい表現だなあ。ところで「全句集」を読んでいて上に引用した「人情のほろびしおでん」の句を見つけた。自選句集『流寓抄』に収められている。この句はいまひとつの句とセットになっているとおぼしい。一つ前の句は、
凍 つ る 日 の に は か に あ き し 扉 な り け り
であり、そこに「――真船豊、突然北京より帰り来る。」の前書きが付いている。さらに「おでん」の句には「――語る。」と前書きがあるから、想像すれば、北京から突然戻ってわが家を訪なってきてくれた真船豊とおでん鍋をつついて旧交を温めながら酒を酌み交わすという情景が立ちのぼる。つまり久世さんが述べたような街角のおでん屋台の前を(というのは私のイメージに過ぎないが)背中を丸めて通り過ぎるパセンジャー久保田万太郎の姿を映す句ではないのである。
もちろん久世さんの解釈が誤りだと言うつもりはない。句とそれに付く前書きは一体のものではあろうが、それらを切り離し他の句とつなぎあわせ、ひょいと久保田万太郎の新たな肖像を示してみせる久世さんの手業に、逆に感動をおぼえたのだった。
ところで病中病後の私の気持ちを万太郎の句で示すと、こんな感じだろうか。
い や な こ と つ も り に つ も る 髪 洗 ふ
「髪洗ふ」は真夏の季語なのだそうだ。少し早いかもしれないけれど、退院してさっぱりと洗髪できた今の気持ちにぴったりである。

*1:ISBN:4166602896

*2:戸板康二さんは『万太郎俳句評釈』(富士見書房)のなかでこの句を「私の好きな句」の一つに入れている(同書116頁)。