花柳小説の金字塔

芸者小夏

舟橋聖一『芸者小夏』*1講談社文芸文庫)を読み終えた。
実はこの作品が原作となった映画をかねがね観たいと思っていて、長いあいだ果たせないでいたが、日本映画専門チャンネルで放映していることを知って慌てて録画し、どうせ観るのならその前に原作を読んでおこうと奮起したのである。
山梨県にある温泉場の芸者の子として生まれ、幼い頃母を亡くし置屋で育てられた主人公夏子は、小学校卒業後芸者となり、小学校の恩師にほのかな恋慕を抱きながらも結局東京の建設会社の社長に身請けされて東京西郊(井の頭線沿線)の妾宅に囲われて二号さんとしての生活を送ることになる。
小説はそんな幼くて純情な芸者夏子と恩師久保先生との淡い恋を背景に、芸者としての生活、また囲われた妾としての日常生活が微細に描かれる。個人的には、芸者が身請けされるまでのかけひきや、身請けされてから妾宅で暮らしてゆく「二号さん」としての日常生活の細部、また二号さんが旦那やその正妻に抱く心の揺れなどが生き生きと描かれている点でとても面白かった。
「不倫は文化だ」という名言があったけれど、花柳界は堂々たる文化と言えるし、非難をかえりみず言えば、「女を囲う」という行為もそれに近いものがあったのではあるまいか。ただ「女を囲う」のが文化的性格を発揮したのは、近代以降の富裕層という限定された時間と階層に限定されていたのかもしれないが。そしてもちろんこの「文化」は、すでに明治期でも黒岩涙香のようなジャーナリストから「蓄妾」と批判された背徳的行為ではあった。
だからこの『芸者小夏』は、いまやまったく廃れてしまった花柳界の身請けから、身請けされた女性の生活までを漏らさず描いたという意味で、貴重な「文化」の一端を伝えているとも言える。
本書は、講談社文芸文庫において丸谷才一さんが『花柳小説傑作選』を編んだときに収録候補になったが、連作短編集のおもむきを呈しているとはいっても一篇だけを抜き出しがたく、結局は長篇小説ということになるので(とわたしは推測する)収録が見送られ、かわりに一冊独立しての文庫化が企画されたのだという。このいきさつは本書にとって幸福だったし、わたしたち読者にとっても同様だった。こんな素敵な小説を文庫で読めるのは幸せである。ちなみに「花柳小説の金字塔」とは文庫帯の惹句である。
中身は結構官能的で、かといってあからさまでなく大事な部分、場面は衝立の奥に隠されるようなうまい見せ方がされているから、それがかえって想像力を刺激する。
これで講談社文芸文庫に入った舟橋作品は『相撲記』『悉皆屋康吉』につづいて三作目であり、珍しくわたしはそのすべてを読んでいる。しかもいずれも面白いのだ。意外にわたしには舟橋作品が合っているのかもしれない、そんなことを感じた。
なお上記の文庫化経緯は、松家仁之さんによる解説に紹介されているのだが、丸谷さんの担当編集者でもあった松家さんの解説は文章表現が意を尽くして素晴らしく、やはりこの人の小説作品(『沈むフランシス』など)を早く読もうという気にさせられる。

引用を読むか読まぬか

異形の白昼

9月中旬に読んだ本。
筒井康隆『異形の白昼 恐怖小説集』*1ちくま文庫)。
アンソロジストとしての筒井さんの見識の高さが発揮された一冊。巻末の筒井さんによる「解説・編輯後記」を早く読みたくて本篇を読んだという本末転倒の気味があった。全篇すばらしいのだが、なかでも、小松左京「くだんのはは」、結城昌治「孤独なカラス」、筒井康隆「母子像」、曾野綾子「長い暗い冬」が恐ろしい。さらに一篇を選ぶとすれば、別に編者に敬意を表してというわけではないが、「母子像」に指を屈する。やはりこれがもっともこわい。
「くだんのはは」といい「母子像」といい、とくに有名な作品であり、わたしも過去に読んだことがあるはずなのだが、まったく憶えていない。そんな自分の記憶力のなさを思い知らされた読書体験だった。生島治郎笹沢左保といった作家にもこんなに魅力的な作品があるのだと知ったのも嬉しい。いまほとんど読めないのかもしれないが。
もう2冊。池澤夏樹『言葉の流星群』*2(角川文庫)と、谷口基『変格探偵小説入門 奇想の遺産』*3(岩波現代全書)。前者は宮澤賢治、後者は乱歩をはじめとした「変格探偵小説」、それぞれまったく違った対象を論じた本だが、そこで言及されている(引用されている)対象への向きあい方について考えさせられた本だった。
宮澤賢治作品は、童話にせよ詩にせよ、あまり読んでいない。読もうとしたことはあったが、肌が合わないというべきだろうか。深く入ってゆけなかった。でも、『言葉の流星群』のなかで池澤さんの文章とともに引用されている宮澤賢治作品であればスッと頭に入ってくる。宮澤賢治もなかなか面白いと思う。結局、自分ひとりでは歯が立たないということなのだろう。人の助けを借りなければ、宮澤賢治とは向き合えないのかもしれない。自分にとって宮澤賢治とはそういう存在であり、今後も変わらないだろう。
いっぽうの『変格探偵小説入門』。いままで作品として楽しんできた対象が評論されている。江戸川乱歩横溝正史小酒井不木夢野久作らの作品が掘り下げて論じられている。乱歩およびその作品を論じた第二章であればすんなり読める。かつてひととおりすべて読んでいるから、ここで谷口さんが論じておられる乱歩作品を知ったとしても、自分の乱歩作品に対するイメージの核がしっかりあるから、これから再読しようと思っても谷口さんの説が邪魔をするわけではない。乱歩であれば泰然と構えていられる。
ところが夢野作品だとそうはいかない。たとえば『ドグラ・マグラ』は学生の頃読んだが、あまりわけがわからないまま何とか読みとおしたという印象しかない。だから、いつの日か再読しようと思っている。この本の議論が再読に影響するのではと恐れ、表面をなでるように読むことしかできなかった。なるべく白紙で読みたいのだ。もっとも再読はいつになるかわからない。わたしのことだから、本書を熟読しても、そのあいだに論旨を忘れているかもしれないのだが。
本書のなかで惹かれたのは、第三章の横溝論(「変格の血脈―横溝正史が受け継いだもの」)だった。とくに戦前書かれた「孔雀屏風」という作品が漱石の「趣味の遺伝」の影響を強く受けたものであるという指摘は面白かった。「蔵の中」「鬼火」といった耽美的作品は横溝作品のなかでもあまり得意ではなかったが、その流れに位置するらしい「孔雀屏風」には強く興味をそそられた。角川文庫の『真珠郎』に収められているらしい。今度見つけたら買っておこう。
「変格探偵小説」を論じた評論が岩波書店から出るということに驚きつつ感慨深く受け止めていたけれど、横溝正史漱石の影響を強く受けていたという主張が、あるいは岩波から出てこそインパクトがあるということだったのかもしれない。「あとがき」などによれば、ここでの主張は既発表論文にておこなわれており、たんにわたしが初めて知ったに過ぎないようなのだが。
いずれにせよ、小酒井不木城昌幸の作品をじっくり読んでみよう、そんな気持ちにさせられ、「変格探偵小説」の大いなる可能性と文学における重要性を、文学研究の立場から教えられた本だった。

永遠と名づけ

決定版切り裂きジャック

この9月上旬に読んだ本。
伊坂幸太郎さんの『終末のフール』*1集英社文庫)。
子供の頃、人は死んだらどうなるのだろうと考えていたら眠れなくなったとはよく聞く話である。わたしもそうだった。しかも今もってときどきそういうことが頭から離れなくなって寝つけなくなり、本を読んだりして何とか忘れようとすることがあるから困ったものである。
死んだらもう永遠に家族と会えなくなる。それだけでなく、何億年かあとには地球という星そのものもなくなって、自分たちが生きていた痕跡すらなくなってしまう。そんなことを考えると恐ろしくなってしまうのだ。そんな死への恐怖、永遠への畏怖から、宗教や文学が生まれてきたのだろう。
『終末のフール』は、8年後に小惑星が地球に衝突し、人類は滅亡すると予告されたあと、5年を過ぎ、残り時間3年となった時点での仙台に生きる人びとを連作形式で描いた作品である。滅亡予告直後には世の中はパニック状態になり、絶望した人たちによる略奪や殺人などが横行し、自殺も増加した。5年を過ぎた頃になるとそれも若干落ち着いたというあたりの絶妙な時間的配置のなかに、終末を迎えようとする人びとの暮らしが点景として映し出され、それが底の方でつながっている。
やはり伊坂さんは物語の設定がうまいなあと脱帽する。そのうえ、そうした設定のなかで人間はどうなってゆくのかという想像力が豊かであり、細部に違和感を持たせない説得力を持っている。
もし本当にそんな予告がなされたなら、自分はどういう行動をとるのだろう。他人をかえりみずひたすら食料確保に走るのか、安全なところなどないくせに、少しでも安全なところに逃げようとするのか。あるいは達観して、どうせ無駄になることがわかっていても、そのまま仕事を淡々とつづけるのか。
すぐに達観はできないだろう。ならば、どのような階梯を経ればそういう境地に至るのだろうか。いろいろと考えさせられる物語であった。
仁賀克雄さんの『決定版 切り裂きジャック*2ちくま文庫)。
1985年に刊行された元版以来蓄積されてきた切り裂きジャック関連の本をさらに渉猟してそれらを紹介し、最終的な見解をまとめる。あとがきによれば、たんなる85年版の増補ということではなく、大幅な増補改訂をしてあらたに書き上げたのだという。
初耳だったが、切り裂きジャック研究者(愛好家)を「リッパロジスト」と呼ぶのだそうだが、事件(1888年)から100年以上を経て、もうあたらしい証拠・証言などは出現しないという21世紀の今出された本書は、リッパロジスト仁賀さんの集大成というべきなのだろう。
読みながら、そもそもこの殺人鬼を「Jack the ripper」と呼んだ人は誰なのだろうと不思議に思った。ネーミングセンスが素晴らしいからだ。この呼び名が殺人鬼のイメージを決定づけ、100年以上にもわたって恐怖の記憶を残し、人によっては強烈に魅せられ、「リッパロジスト」まで生んだその名前。
答えは本書にあった。第二の殺人後に新聞社に送られた犯人自身からの犯行声明とされる投書。そこにそう署名してあったのだという。以降この名前が犯人の呼び名となった。仁賀さんはこの声明は犯人のものではなく第三者の悪戯だと断定しているから、結局その「悪戯者」が切り裂きジャックという大殺人者のイメージを導いたことになる。
では「Jack the ripper」を「切り裂きジャック」と邦訳した人は誰なのか。Jack the ripperは強い印象を与える呼称だが、切り裂きジャックもなかなか原語に劣らない喚起力をもっている。
もちろんJack the ripperを単純に訳せば、誰でも「切り裂きジャック」になるだろうと言われればそうかもしれない。でも最初にそう訳した人はやはりすごい。仁賀さんによれば、日本で初めてJack the ripperを紹介したのは、事件から40年後の牧逸馬『世界怪奇実話』だという。そこで牧逸馬が「女肉を料理する男」と題して切り裂きジャックを取り上げたのだそうだ。のちにタイトルが「切り裂きジャック」と変更された。
仁賀さんが引用している部分からは、牧が本文で「切り裂きジャック」と書いているかどうかまで確認はできない。だから、その後殺人鬼が「切り裂きジャック」と呼ばれるようになってから、タイトルがそれに合わせて変更された可能性もないわけではない。
むかし『世界怪奇実話』を持っていたはずだが、手放してしまったようだ。以前光文社文庫から、島田荘司さんの編にて復刊されたとき、買うか迷った記憶がある。買わずにそのままになって、古本で見かけたときも同じように迷ったように思う。買っておけばよかった。
Jack the ripperにせよ、切り裂きジャックにせよ、その名づけのうまさも殺人者像の増幅にあずかって力があったのではないだろうか。

8月に読んだ本

鉄火場の競馬作法

ここ一、二週間で読んだ本。
新海均カッパ・ブックスの時代』*1(河出ブックス)。光文社を代表するシリーズだったカッパ・ブックス神吉晴夫の手によっていかに生み出されてきたのか、どんなふうにベストセラーが企画されたのか、ワクワクさせられるようなサクセス・ストーリーである反面、カリスマ的な経営者のもとでの労働争議なども描くなかなか硬派な部分もある。一時期光文社に勤めていた種村季弘さんも登場。組合の総会で活躍した姿も。
カッパ・ブックス(ノベルズ含め)はほとんど買ったことがない。澁澤龍彦の『快楽主義の哲学』、渡辺一夫『うらなり抄』、伴淳三郎『伴淳好色放浪記』を古本で買った程度。新刊で購入した記憶のある数冊の新刊のうち、藤代三郎(目黒考二)『鉄火場の競馬作法』*2は、カッパ・ブックスというシリーズだけにとどまらず、いまなお忘れられない快著である。
中川右介『歌舞伎 家と血と藝』*3講談社現代新書)。
歌舞伎は、観ることを積み重ねてゆくうちに、筋立てや、代々の役者によって工夫されてきた型、おなじ演目でも役者による違い、舞踊の身体感覚など、歌舞伎という演劇の本質的な愉しみを味わえるようになってきたが、もともと歌舞伎に対する関心のうち多くの部分を占めていたのが、代々受け継がれてきた名跡をめぐるドラマ、あるいは名跡をめぐる政治であることを再認識させられた。こういうドラマがあるからこそ、歌舞伎は面白いのだ。
歌舞伎の存続や名跡の継承、一門の浮沈に「政治」がいかに重要かが述べられている。歌舞伎は「芸術」なのだから、いくら「政治」に長けていても、役者としての技量を究められなければ歌舞伎役者としては一流ではないというのは綺麗事に過ぎないのだなあ。
藤森照信山口晃『日本建築集中講義』*4淡交社)。
建築史家藤森さんと日本画家山口さんが日本各地のさまざまな建築物を訪れた探訪記。ふたりの対談のかたちをとる。藤森さんが説く日本建築論にはいつもながら学ぶところが多い。本書では、それに加えて山口さん描くところの藤森さんの行動がとても面白い。大先生を目一杯戯画化しているのだけれども、そこには愛と敬意が込められている。そんな山口さん描くところの藤森照信像が大好きである。
山形に帰省しているあいだ、岩波文庫芭蕉 おくのほそ道』*5を読み終えた。また久しぶりに立石寺も訪れた。「おくのほそ道」自体、山形人としては子供の頃からなじみがあるし、古典の授業でも再三読んでいる。「岩に巌を重て山とし、松柏年旧…」といった一節は暗記しているほど。
今回通読して、いいなあと思ったのは、象潟から北陸にかけての部分。象潟についての「俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり」という描写にうなり、また、『獄門島』にも登場する「一家に遊女もねたり萩と月」が詠まれたおりの、同宿した新潟の遊女とのやりとりに胸が熱くなった。
岩波文庫版には、随行した曾良の旅日記のほか、「おくのほそ道」の旅で詠まれた句や巻かれた連句曾良が書きとめた「俳諧書留」が収められている。山形にて詠まれた「五月雨を集めて涼し最上川」は一首の俳句として知っていたが、これが発句となって巻かれた歌仙には初めて触れる。「岸にほたるをつなぐ舟杭」という脇、「瓜畠いざよふ空に影待て」という第三へと続く歌仙が、これまたすこぶるいいのである。
俳句そのものから大きく踏みだし、歌仙(連句)へと関心が広がっている。自分も変わったなあと思う。それでいま、おなじ岩波文庫芭蕉連句集』*6を少しずつ読み進めている。

古典化に遭遇する

占星術殺人事件

島田荘司さんの『改訂完全版 占星術殺人事件*1講談社文庫)を読み終えた。本作は、昨年刊行された週刊文春臨時増刊『東西ミステリーベスト100』において、日本作品の第3位にランクされた。1985年のときは21位だったという。まあそれもそのはず、このとき元版は出て4年しか経っていない。
今回のベストテンで言えば、5位に入った宮部みゆきさんの『火車』や9位に入った京極夏彦さんの『魍魎の匣』のような時間的距離感だろうか。この2作品ですら出て4年という近さではないだろう。その意味では、出て4年しか経っていない作品が21位とはいえ高位に入ったのは奇跡的であろう。でも、この作品がその後「新本格」を生み出したことを考えれば、85年も今の人気も当然なのかもしれない。
わたしが憶えている推理小説のランキングでは、今の3位ほどではないにせよ、ヒトケタに入っていたはずである。どこが主宰したランキングだったかは忘れた。実際その順位の高さに導かれ、当時講談社文庫版を購入した。でも未読のはずだ。
そもそもわたしはこの手の「本格」、読者への挑戦が入っているような、データをすべて出してさあ犯人を当ててみなさいといったミステリは好みではない。論理的謎解きを主眼にするものの、犯罪自体猟奇的であり、占星術というマジカルな雰囲気をたたえていたから、購入したのだろう。
そもそも今回文庫に入った「改訂完全版」とは、文章を読みやすくし、謎解きに必要な図表を入れ、文脈を破壊せぬ程度に蘊蓄を増やし、修正したものだという。すでに島田さんの文庫に収められ、講談社ノヴェルスからも出ているバージョンを文庫にしたに過ぎないようだが、わたしのようにそうした経緯を知らない人間にとって、文庫化は読書のいい契機になる。
本書に添えられた著者の「改訂完全版あとがき」には、この作品が舞台にしている1970年代あたりの時代の空気や、殺人事件が起きた昭和初期の雰囲気に対するノスタルジーが語られている。30年も経てば立派な古典なのだ。
殺人事件が起きた家は目黒区大原町にあったという。聞いたことがない地名だと思って調べたら、いまは住所表示が変わったとのこと。実際事件があった昭和初期には存在した地名なのだ。それがわかった段階で本書のリアリティの高さに強く惹きつけられたことは言うまでもない。あとがきを読むと、そのあたりで島田さんは育ったらしい。だからこそのリアリティなのだ。
また殺人事件が起きた日は昭和11年2月26日。二・二六事件があった日である。二・二六事件といえば、「蒲生邸」でも事件が起こった日だよなあなどと思いつつ読み進めた。まれに見る大雪に見舞われた日ということで、小説にしやすい題材なのだろうし、推理小説としては、本作品でもキーポイントとなる足跡トリックにもってこいの舞台装置だ。
ミステリなので詳しくは触れないが、なるほどそういうことか、さすが3位に入る名作だと感心する。少しずれているのかもしれないが、『不連続殺人事件』的な欺しトリックが仕掛けられている(どこにとは言わない)。
これで2012年のベストテン中、未読なのは『大誘拐』(ただし映画は観た)と『十角館の殺人』のみ。新本格が苦手なわたしは後者は読まないだろう。いま『ドグラ・マグラ』(4位)などを読むと印象が変わるのかもしれない。再読したいが、さてそんな余裕を持てるかどうか。
ミステリ好きになった頃に新刊で出た本がその分野の古典として崇められるようになったとは。時間の堆積を感慨深く受けとめた。

速水御舟に惹かれる心

速水御舟展

年のせいか最近油絵の具を使ったいわゆる洋画から、絹本・紙本に顔料で描いた日本画に惹かれることが多くなった。東京国立近代美術館など大きな美術館の常設展示などでも、日本画の空間にやすらぎをおぼえることが多くなった。
それら日本画を観ているうち、「これはいいなあ」と感じた作品の作者を確認すると速水御舟であることが何回か重なり、自分は速水御舟作品が好きなのだという自覚を持つようになった。ちょうど夏休みのこの時期、山種美術館にて速水御舟作品を中心とした展覧会をやることを知り、暑いさなかにおもむいた。
山種美術館は広尾にある。道のりでいけば、いつも地下鉄表参道駅から非常勤先の國學院大学に歩いてゆくルートの先に少し足を伸ばしたところにある。日本画中心の美術館である山種美術館を訪れるのは初めてだ。2009年に開催された速水御舟展の図録を購い、帰ってから見てみると、今の建物はその年に広尾に新築移転されたのだという。2009年段階で速水御舟への関心はすでに高かったと思うのだけれど、まだまだ自分の関心は「日本人洋画家」といったあたりに向いていたらしく、そもそも仕事のことでそれどころではなかったのかもしれない。
さてその山種美術館は、エントランスでチケットを購入すると、展示室は階段を下りた地下に広がっている。意外に人が多くて驚いた。
横山大観や下村観山など有名どころの作品も多かったが、やはりわたしの目は速水御舟作品に持っていかれてしまう。今回たくさんの御舟作品を観て思ったのは、御舟作品のなかでも、屏風絵のような大作でなく、色紙大程度の小品が一番好きだということ。御舟は小品にかぎる。
なぜ自分は御舟作品に惹かれるのだろう。そんな疑問を自分で納得したいこともあって、御舟作品に見入ったが、たぶん、描かれている素材(草花、小鳥などのほか静物画的題材)の選び方、緑や紫の色合いなどが大きいのではないかと思う。色合いでいえば、水墨画風に墨の濃淡で葉を描いたところに、葉にのるキリギリスと茄子を描いた「秋茄子」や、緑の茎がひょろひょろと不思議な曲線を描いて伸びるところに紫の花をつけた「豆花」などに見とれた。
ただし今回もっとも「欲しい」と思った一品は、「夜桜」であった。暗闇のなかにほんのりと浮かぶ桜を描いた作品。桜の花は、明るい陽の光で見たときの鮮やかさとは対照的に、闇夜にうっすら白く映えるといった程度の奥ゆかしさ。しかも描かれた絹というマティエールとの相性が素晴らしく、目を近づけて絹の地を見つめるとところどころキラキラ光っている。
これは何なのだろうと、帰ってから2009年の図録を繰ったら、背景に薄く金泥がひかれているのだという。なるほどそういう隠し効果があったのか。この図録に「夜桜」を見ると、闇夜でなく薄暮の桜といった印象だが、実際に展示空間で見るともっと夜は深い感じがする。
重要文化財だから代表的作品なのだろう「炎舞」も素晴らしい。目の前に立つと、暗がりのなかにこの作品だけにスポットライトが当たっているかのような印象をおぼえる。闇のなかにまっすぐ立ち上る火柱が描かれているからそういう錯覚を与えられるのだろうか。火柱のなかに舞う蛾たちの繊細な姿、これこそ速水御舟なのだ。
帰りは地下鉄広尾駅まで歩く。坂道を下る途中にペルー大使館があった。東京にはよく見られることだが、おなじ広尾といっても、坂の上と下ではまったく町の景観が異なる。川が流れたあとを暗渠にしたような、不自然にカーブしている道沿いに建つ古ぼけたアパートや、雑草の生い茂った路地などなど、坂の下には家が密集してまさに下町的風景が残っている。東京の町を歩くということは、こういうギャップを愉しむことである。